ベトナム奥地・中部高原地帯の中学校(4)
長年ホーチミン市に住んでいる長谷川義春さん(奥様はベトナム人)が、ベトナム奥地(中部高原地帯にあるコントゥム省[Tỉnh Kon Tum, 崑嵩省])で、中学校の寄宿舎を作りました。
その「報告書」と新聞記事(日本語訳)を8回に分けて紹介します。
「米と漬物持参で分校へ 」(Mang gạo và dưa muối đến trường)
(《トゥオイ チェ新聞の記事》-2)
チュウンソン山脈の奥深い森の中の学校で新しい学年を迎えることは、先生にとっても生徒にとっても、新しい試練の一年を迎えることである。連綿と続く深い山並みの中の学校で教える者と学ぶ者との物語は、きわめて大きな困難と、しかし深い人間愛とに満ちた物語である。
魚を捕り野菜を摘む先生
ゴクテーム中学校で教えているたくさんの先生の中で、フア ティ トイ キェウ先生(女性)と同業のご主人は同じ学校に配属されて、多くの同僚から“幸運の持ち主”と誉めそやされ ている。
それでも、キェウ先生夫妻をいちばん寂しくさせていることは、自分たちの息子が生まれて6ヶ月になったときからコントゥム省ダクハー郡に住む父方の祖母に預けなければならなかったことだ。
この1年近くの間が、夫妻にとっていちばん辛い時期で、何回も連続して子供に会いに行かなければならないこともあった。学校において、若い先生たちの“心の支柱”と慕われているグエン ダン リン先生ではあるが、しかし、自分の家族について話すときは、やはり寂しさは隠せない。
「私も父親ではあるけれど、子供がまだ小さいときから学校の現場に入って仕事をしていたので、家庭の中の仕事は全部妻が1人で担わなければなりませんでした。
道がこんなに遠くて、子供に会いに帰りたいと思っても簡単ではありません。
妻子が思い出されてならない時は、村の役場のすぐ脇にある高台にまで行って、その天辺(てっぺん)に立って、家族にかける携帯電話の電波が届くかどうか試してみます(*訳注10)。」携帯電話の電波が届かない、新聞や雑誌もない…。
物質的な欠乏は、ここでは先生たちが毎日遭遇しなければならない日常茶飯事である。
この学校に赴任したばかりの2人の若い先生、ホアン スアン フン先生とホアン ディン スアン先生は、第2集落にある分校で教えることになったが、しかし第二部落第2集落には、先生の起居する部屋さえなかった。
ほとんどの物がまったく何もなく、2人の若い先生は、まず、木材で建てた集落の公共の建物に仮泊させてくれるよう交渉しなければならなかった。
それから、鍋と火を借りに行き、米を分けてもらってご飯を炊いた。
ここでは、売っている物すべての値段が恐ろしく高く、平地での2倍、3倍もする。
例えば、空芯菜1束が5,000~6,000ドン(*訳注11)といった類だ。
だから、生活費を切り詰めるために、2人の先生は授業が終わった後で渓流に下りて魚を捕り、食用になる菜を摘んで帰って、食事の足しにする。コンプロン郡教育委員会副会長のダン レ チョン先生は、
「チュウンソン山脈独特の地形と気候条件によって、ここでの学校教育は非常に多くの困難に直面しなければならず、教育に携わる過程で教員が深い森の中で犠牲になるケースも少なくない…。 」
と、語ってくれた。
マンブット第1小学校教員チャン ティ ミー フーン先生(女性)は、マンブット村ロンルアのサーゲ渓谷を生徒と一緒に渡っていたときに、乗っていた丸木舟がひっくり返った。
没後、フーン先生の故郷ハーティン省ドゥクトー(*訳注12)まで、同僚の先生たちが特別の搬送車を借りてフーン先生の遺体を運んだ。
2006年には、ダクネン村の中学校教員ティン先生(女性)も、集落を通って食べ物を買いに出た途上で、突然渓流から溢れ出た水に襲われて犠牲となった。グエン ダン リン先生に語ってもらったところでは、2007年、リン先生が赴任していたゴクテーム中学校教員グエン ティ トー先生(女性)も、登校途中で洪水に巻き込まれて犠牲になった。
そのときトー先生は、週末には同業の恋人を連れて故郷のクァンガイ省(*訳注13)に戻り、家族に紹介する予定になっていた。
しかし、その日をわずか数日後に控えて、先生は皆に永遠の別れを告げたのだった。(『トゥオイ チェ新聞』記者ドアン トゥ ズイ‐タイ バー ズン記)
松明を焚いて学童を探しに
9月になって、チュウンソン山脈の東の一角に位置するコントゥム省コンプロン郡内の6,000を超える生徒たちも、新しい2010- 2011学年度(*訳注14)に入った。
ダクロン小学校では、すでに時計は夜の8時を指していた。
チュウン ティ ミー リン先生(女性)は、すっかり冷めてしまった夕食の膳のそばで、ご主人(ヒェウ村の中学校教員グエン ヴァン ホアン先生)の帰りを待ちわびていた。
リン先生の話によると、ホアン先生は直接校区(学区)内の各集落に入り、子供たちが学校に来て勉強するようにがんばって運動を続けている。
毎週3, 4日間は、各家庭を1軒ずつ訪問して回り、説得するのだ。
そうして、生徒の誰かが学校を休めば、ただちにその子の家に行って学校に連れて来る。
さもないと、子供たちは学校へは来ないで、父母に連れられて野良仕事に出てしまうからだ。ダクロン村のコンレン分校は、夜の闇に沈んでいた。
教室では、ファム ティ ヒェプ先生とチャン キェウ ロアン先生(ともに女性)が教え、教室の後ろではアー エトさん(男性)が先生を補佐していた(*訳注15)。
ヒェプ先生が話してくれたところによると、この教室は午前も午後も授業を行う(*訳注16)。
夜になると、生徒に宿題をやらせる代わりに、先生たちがまた勉強を教える。
子供たちの自覚に任せておけば、ほとんど勉強できないからだ。
夜、教室に空いた席を見つけると、松明(*訳注17)を焚いて休んだ子の家まで探しに行き、何としてでも連れてくるのだ。(『トゥオイ チェ新聞』記者チャン タオ ニー記)
*訳注10:日本では、全国的にすっかり固定電話が定着して何年もしてから携帯電話が発明され急速に普及しましたが、ベトナムの場合は違います。
固定電話を敷設するには1本1本電柱を立て電話線を延ばしていかなければならないため、固定電話が普及したのは大都市の一部だけ。
その後、携帯電話が輸入され、大都市を中心にして全国に急速に広がっていきました。
特に学校など公共機関は外部との連絡手段が必要なため、どんな辺鄙な田舎の機関であっても、その責任者は常備しているようです。
携帯電話の電波は全国に広がったとは言っても、山の上まではなかなか届かない。
だから、この場合のように、《周りに電波を遮断するものがない場所・気象条件などを選んで電話をかければ、かかることもある》地域もあるようです。
たぶん、まったく無理な地域もあると思います。
*訳注11:空芯菜といえば、日本では比較的最近輸入されて定着した野菜ではないかと思いますが、こちらベトナムでは、少なくともホーチミン市では、最も安価で手軽に買える野菜の代表です。
私の妻にホーチミン市での値段を確認してみたら、「束の大きさにもよるが、1束2,000~3,000ドン(2011年3月のレートでは8~12円程度)が相場」とのことです。
*訳注12:ハーティン省はベトナム中北部の省で、コントゥム省コンプロン郡からハーティン省ドゥクトーまでの直線距離を地図で測って割り出してみると、大ざっぱに520キロメートル。
実際の道路は、山を巻いて走っていたりするので、それよりはるかに長いはずです。
その距離を、車に遺体を積んで運んだとすると少なくとも2, 3日以上はかかったはずで、付き添った同僚の先生たちも大変であっただろうと思います。
*訳注13:コントゥム省の東に隣接した省。
*訳注14:ベトナムでは、毎年9月に新しい学年が始まるので、2010 – 2011学年度とは、2010年9月から始まる学年のこと。
*訳注15:二人の先生はキン族(ベトナムの多数民族)出身で地域の民族語を十分には解せず、民族語で育った生徒たちは先生の話す標準語(ベトナム語)を十分には理解できず、補佐する男性が間に立って両者の意思疎通を助けているのだと思います。
記事を読めば、1つの教室で、同時に2人の先生が複式授業を行い、それを補佐する補佐役は1人です。
日本では、とうてい考えられない複雑さ・難しさだと思います。
*訳注16:ベトナムの小学校は、原則として、授業は午前中だけです。
この記事から私が推測できることは、この分校は教室が1つしかなく、午前の部だけではすべての生徒に教えることができず、午前と午後の2部制をとっているのだということです。
さらに、夜まで生徒を集めて教えているとなると、2人の先生の努力は、非常なものであろうと思います。
*訳注17:《懐中電灯》という高価なものは使用できない奥地の学校では、日本でも昔懐かしい歴史物語などで登場する《松明》が現役で活躍しているようです。
私はとりあえず《松明》と訳してみましたが、ベトナムの友人に聞いたところでは、この《松明》は松脂を使うというよりも、枯れ木でも竹でも、場合によったらボロ切れでも、燃えるものは何でも使って作るのだそうです。
しかし、天候が荒れて雨が降ったり風が吹いたりしたときには、そうして寄せ集めて作った《松明》が使い物になるのかどうか…。


