My Son

クアンナム省のチャム遺跡

 西暦192年、現在のフエ付近に林邑国(チャンパ王国)が建国されます。林邑国は、隣国の扶南とともに4世紀以降、中国文明と並行してヒンドゥー文明を受容したと伝えられています。

 林邑国のはベトナム中南部、現在のダナン、クアンナム省周辺にありました。しかし10世紀にベト族がベトナム北部に「大越」を建てると、982年、チャンパ王ヤン・プー・クー・ヴィジャヤ(Yan Pu Ku Vijaya)は現在のビンディン省の「ヴィジャヤ」に都を移しました。
 クアンナム省にはいくつかのチャム塔(チャム族の宗教施設)が残っていますが、なかでも1999年ユネスコ世界文化遺産に登録されたミーソン聖域は、古代チャンパ王国の聖地でした。ミーソン聖域に関する情報は検索すればいろいろ出てくるので、VOV5ベトナムの声放送局ホームページ > ベトナムディスカバリー > ミーソン遺跡 だけ紹介しておきます。

 ここで、ちょっと寄り道することをお許しください。古代、日本と林邑国(チャンパ王国)とのあいだにあった歴史です。

 天平5年(733年)第10次遣唐使(多治比広成大使)は4隻の船に分乗して難波津を出発し、途中、嵐にあったものの全船蘇州の都に到着しました。一行は長安で朝貢の役目を果たし、734年10月、蘇州の港から4隻の船に分乗して帰国の途に就いたものの、東シナ海上で暴風雨に遭遇し、4隻は離れ離れになってしまうのです。
 判官・平群広成(へぐり ひろなり)が指揮をとっていた第3船は海上を漂流し、流れついたところは崑崙(こんろん)国=林邑国=現在のベトナム中部でした。第3船ほかの乗員は感染症にかかったり、海賊の襲撃によって全滅します。生き残った平群広成たち4人は、崑崙国の都で幽閉されてしまうのでした。
 艱難辛苦の末、広成は長安に戻ることができ、阿倍仲麻呂の支援を得て渤海国経由で739年7月に出羽国(現在の山形県、秋田県)に到着し、6年ぶりに日本への帰国を果たしました。

 上記は『続日本紀』天平十一年条に簡単な記載があります。

国史大系. 第2巻 続日本紀;経済雑誌社 編;1897-1901;国立国会図書館オンライン;コマ番号116-117/405

ミーソン聖域Thanh dia My Son

 以下の写真は、1997年4月28日にミーソン聖域を訪問したときのものです。
 前日、ホーチミン市から飛行機でダナンに到着し、空港から予約していたホテルまでバイクタクシーで行きました。ホンダ・カブの荷台です。そのセーオム Phung Huu Thinhさんが信用できそうだったので、28日・29日のチャム遺跡めぐりもお願いしました。当時55歳、子どもが6人。片言の英語を話します。米軍が来ていたとき、覚えたそうですが、そのころのことは話しません。
 28日は、たしかホテルへ午前8時に来てもらう約束だったと思います。約束の時間に10分ぐらい遅れて現れたThinhさんと、まずはホテルでコーヒーを飲みながら打ち合わせ。ホテルを出たのは午前9時ごろで、市内で美味しいバインミーのお店に寄ったりしながら、市内を一走り。いよいよ片道約60kmの道をミーソンへ向けて出発です。安全運転に徹しながら、道中、1~100までのベトナム語をレッスンしてくれました。
 現在ミーソン聖跡への道路は整備され近道もできたようですが、このときは国道1号線を南下し、トゥボン川を越えてから川に沿って西進し、途中でふたたび南下した記憶があります。田んぼでは、合鴨農法をしているようでした。
 川に沿って西進しているとき、学校へ登校するアオザイ姿の女子学生たちが乗った自転車とすれちがいました。むかし、日本でも自転車に駄菓子を積み、紙芝居をしながら子どもたち相手に商いする紙芝居屋さんをよく見かけましたが、同じような光景にも出会いました。

 当時は、ここよりもっと手前でモトバイクを降り、細い道を歩いてこの木製の橋を渡ってミーソン聖域に足を踏み入れました。
 来る前は鬱蒼としたジャングルの中に遺跡があると思い込んでいたのですが、大木は見えず、植林した木しかなかったのが意外でした。

手前でホンダから降り、歩いてこの橋を渡ってミーソン聖域に入りました。

 このあたりは、1年のうちで4月の末から5月にかけてがいちばん暑い季節だそうで、このときも、とても暑い日でした。まわりには食堂どころかお店もありません。ダナンで買ってきたバインミーを、遺跡の日陰で、セーオムと2人で食べました。ダナンで買ったペットボトルの水を飲みほしてしまいましたが、新たに買うことができませんでした。
 私たち2人以外、聖域に滞在中、人に会うことはなく、とても静かでした。ベトナム戦争時、ここを基地とした南ベトナム解放民族戦線に対して、米軍と南ベトナム政府軍が爆撃を繰り返し、多くの遺跡が被ばくして大きな損傷を受けました。歩いていると、そこここに水がたまった池のような穴があり、それは爆弾の投下で出来たクレーターでした。トヨタ財団やいくつかの国の援助で、ごく一部の建造物の整備が行われていました。
 ミーソン聖域は聖なるマハーパルヴァタ山を望むところにあります。最初の建物は紀元4世紀に木造の神殿だったと伝えられ、その後、レンガを使って古い建物の修復、新しい建物の建設が行われました。どうやってレンガを焼き、どうやって建築したのかは、謎です。ここは長いあいだ、チャンパ王国の文化的および宗教的中心であり、チャンパ王や司祭の埋葬地でもありました。
 チャムの人々がシバ神への祈りを捧げていた日々を心に浮かべながら、静かな聖域を歩きまわりました。

チェンダン塔(Thap Cham Chien Đan)

 翌29日は、ダナンからホンダ・カブに乗って南下し、バンアン塔 (Thap Bang An)、チェンダン塔 (Thap Cham Chien Dan)、クオンマイ塔 (Thap Cham Khuong My) を見てまわりました。残念ながらバンアン塔の写真が見つかりません。

 チェンダン遺跡は、ダナン市から南に60km離れた国道1号線沿いにあり、主祠堂とその南北に副祠堂の3つの塔が、東向きに建っています。
 ヴィジャヤ王が首都をクアンナムからビンディンに移転した10世紀後半から11世紀初頭にかけて建てられ、ミーソンA1スタイルからビンディンスタイルへの移行スタイルの塔です。中央の主祠堂のみが完全なかたちで残っており、両側の副祠堂は上層部がなくなっています。
 いずれの塔も大きく、堂々としています。1966年に、ここを基地にした南ベトナム解放民族戦線と米軍との激戦があり、弾痕が多数残っていました。
 塔の手前にある丸いいくつかの山は、広げて天日で乾燥させてから集めた稲わらです。4月末で、もう稲の収穫かと驚きましたが、こちらでは、1年に何度も作付ができるのでした。

 祠堂の横に質素な建物があり、のぞいてみたら、シバ神のレリーフやたくさんのチャム彫刻がある美術館というか、保管庫でした。
 しかし整理されて陳列してあるのはごくわずかで、たくさんの像が建物の片隅に、無造作にころがっていました。
 1989年に発掘された砂岩の土台石には、楽器を手にした演奏者やダンサーが彫られた美しい装飾が施され、印象に残っています。他にも、ダンサーたちのすばらしいレリーフの記憶がありますが、残念ながら写真が見つかりません。

クオンマイ塔 (Thap Cham Khuong My)

 チェンダン遺跡からさらに国道1号線を12km南下した、省都タムキー市市街地を通りすぎたところにありました。道路に面して、侵略に闘う農民たちの記念碑があり、木に覆われた遺跡をなかなか見つけられませんでした。
 南北にある3つの祠堂は、いずれも東に入口があり、上層部が残っています。
 祠堂の内部を見上げると、煉瓦が積み重なって先端が細くなっています。どのようにして、こんなに綺麗に積み重ねたのだろうか、とても不思議でした。祠堂の内部には、棚のような段がところどころにあります。きっと、この棚にはさまざまな神様の像が祀られていたのでしょう。
 レンガで出来た祠堂の壁面には、唐草模様のような紋様が彫られています。祠堂の内部にも、彫刻が見え、ほんの小さな窪みには線香が立っていました。

 以上の写真は1997年に訪れたときに撮ったものです。その後、現地は整備され、遺跡の修復が進んでいるものと思われます。

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