10月14日(金):成田→タンソンニャット空港)
成田に夕刻集合したのは、ルーンさん、カーさん、小倉さん、宮下さん、そして鈴木の5名。
離陸は若干遅れたものの、6時間後にはホーチミン市のタンソニェット空港に到着。
ミンさん、ウットさんの出迎えでサイゴンホテルへ向かう。想像していたより暑くないのでほっとした。
明朝、ホーチミン市師範大学の聴講生の高橋さんがホテルで合流し、授与の旅に合流することになっている。
(鈴木・記)
10月15日(土):HCM市→ロンスエン→チャウドック
ロンスエンへ向けて出発
FUJI奨学金は15年前から始められた。毎年そのための “授与の旅が” 行われていることを聞いてはいたが、私・高橋にとっては今回が初めての参加である。
ホテルに一行がそろう。団長のルーンさん、カーさん、ルーンさんの会社若手スタッフのウットさん、ルーンさんの奥様のミンさん、授与の旅皆勤賞の小倉さん、参加は2年ぶりの宮下さん、初参加の鈴木さん、そしてホーチミン市在住・同じく初参加の私である。
朝8時前にワゴン車で出発。
ベトナム南部は雨季の終わりで、午前中はからりと、雨の心配を感じさせないくらいに良く晴れていた。
車内で、私たちの訪問予定地を含む南部各省の地図と、ウットさん作成のメコンデルタ基本情報をいただく。
ここホーチミン市から昼食予定地のロンスエンまでは南西に約190キロ。日本の感覚でなら3時間足らずで着く距離だが、交通渋滞をかき分けてホーチミン市内を脱出した後、橋を渡りフェリーに乗り、午前中いっぱいはゆうにかかる長旅になりそうだ。
ホーチミン市を抜け、コメともち米焼酎の名産地ロンアン省、メコンデルタの観光で知られフルーツの美味しいティエンザン省を通り、ティエンザン河にかかるミートゥアン大橋を渡る。
ミートゥアン大橋は、オーストラリアの援助で2000年に完成した。全長1.5キロの巨大なつり橋の出現に、うとうとしかけた一行もはっと目を覚まして壮観な眺めを鑑賞する。
橋を渡って向こう岸はヴィンロン省。
ヴィンロン省を越えてドンタップ省に入り、フェリーでもう1つ川を渡ればロンスエンはすぐだ。
ロンスエン到着
ロンスエンはベトナムのコメの大生産地アンザン省の省都、南部ではカントー市に続く2番目に大きい町である。
町中に入ると、比較的広く、整備された道路が印象的だ。こじんまりした地方都市というよりも、大繁盛の小売店やサービス業が目に付く、活気ある都市というイメージである。
予定よりだいぶ遅れて到着した一行を、アンザン大学の学長のスアン先生が出迎えてくださった。
アンザン大学学長 ボー・トン・スアン先生と会食
ボー・トン・スアン先生は、元カントー大学の副学長で、日本に留学して学位をとられた後、何度も来日されて日本とベトナムの農業分野での協力関係に大いに尽力されている方だと聞いていた。
もちろん対外的のみならず、ベトナム国内の農業開発の第一人者でもあり、ベトナムに滞在しているこれまでにも、私はスアン先生のインタビュー記事、ニュースなど幾度となく読んだことがある。
この奨学金授与の旅に参加するつい前日にも、農業の近代化についての先生のコメントがホーチミン市テレビで紹介されているのを聞いた。
すっかりお待たせしてしまった非礼をお詫びしつつ、町中の食堂でテーブルを囲んだ。元FUJIの奨学生の、アンザン大学の学生2人も来ている。大学の話、お仕事の話、農業の話などをしながらの和やかな昼食となった。
後日もう一度お目にかかる約束をし、スアン先生とお別れして一行はそのままチャウドックに向かう。
チャウドックへ
省都ロンスエンからチャウドックまでは約60キロ。車はハウザン川沿いの細い道を北西にまっすぐ進んで行く。窓からは魚を取る仕掛け網、ヤシの木など、メコンデルタの風物詩のような風景が続く。
チャウドックはカンボジア国境近くの町で、ルーンさんの出身地でもある。
今日の目的地であるツー・コア・ギア高校学校で、大勢の生徒たちが待っている。
ツー・コア・ギア高校で奨学金授与式
予定の16時を少し過ぎたところで、チャウドックのツー・コア・ギア高校に到着した。
チャウドックでは、ツー・コア・ギア高校の35名とグエン・ディン・チュー中学の30名に奨学金を贈ることになっている。
両校の対象の生徒が一堂に集まっており、行儀良く座って私たちを待っていてくれた。男の子は白いシャツ、女の子は白いアオザイという制服姿が、すらりとした体型に本当に良く似合う。
学校側の代表としてツー・コア・ギア高校の校長、グエン・ディン・チュー中学の校長と元校長が列席してくださった。まずツー・コア・ギア高校のティン校長から奨学金の趣旨、今年で15年目になる活動の内容などの説明があった。
私たちに奨学金をくださるのはどのような組織なのか、どんな方からいただくのか知らないことは恥ずかしいことですよ。
と、先生は教え諭すようにてきぱきとした口調で話す。
また驚いたことに、“お客様が入室した際、立って挨拶をしなかった” ことへのお叱りがあった。
ただ形式的な儀式として集まるのでなく、こうした機会を通じて自分の言葉で語り、自分の考えを伝えている先生の態度から、きっと普段からこのように生徒と真摯に向かい合っているのだなあという印象を受けた。
さらに先生から、
奨学金とは、生徒たちの学業を奨励するためのものです。家庭が貧しくても、品行が良くない生徒は対象外です。また成績自体はあまり良くなくても、前年と比べてかなり進歩が見られれば、奨学金の授与の対象になります。そして奨学生のリストは毎年見直し、変更がなされます。
と説明があったが、これは生徒たちへの激励とも受け取れた。
11年生 (日本の高校2年生に相当) の6名が奨学金支給2年目ということで、生徒たちのがんばりと奨学金の意義が明らかにされたようだった。
FUJI奨学金の他に、ツー・コア・ギア高校はロンスエン漁協組合銀行、建設宝くじ基金、学校父母会からも奨学金を受けており、また篤志家や企業から不定期の奨励金を贈られることもあるという。
これらのうち最も頻繁にやりとりがあるのが父母会とFUJIの基金であるが、父母会の基金はむしろ、家庭の経済的事情のために学業を放棄してしまう生徒を救うための、いわゆる貧困撲滅対策活動の一環のようである。
そのような意味でFUJI奨学基金は、政策的な援助の対象外ではあるが、経済的支援をまだ必要とする生徒のための、有意義な活動になっているのではないかと思った。
次に生徒代表の挨拶。
先生から促されて、11年生の女子生徒が前に進んだ。恥ずかしそうな様子をしていたが、マイクの前に立つとスッと落ち着いたように、
皆さんの気持ちに報いるようにがんばりたい。
と、きちんとした口調で挨拶した。
ベトナムのテレビのクイズ番組やスピーチ大会に出演する高校生を見ても、私の在籍するホーチミン市師範大学の学生を見ても、恐れ入るのは学生、生徒たちの堂々とした話し振り。
ベトナムの子供たちは小さいときから人前でスピーチする方法を鍛えられているのだと実感した。
“日本からの方々がここに集まっている機会に、皆さんでぜひ交流をしましょう”
とのルーンさんの呼びかけで、質問、交流の時間が始まった。
FUJI奨学基金が1つのきっかけになって、生徒たちが日本のことを少しでも知るようになってくれることは、私たちにとっても大変嬉しい。
生徒たちからは、質問や心中の思いを打ち明けたような語りかけもあった。
- -日本の中高生、大学生はどういう環境で学校に行っているのでしょう?
-経済的に苦しい家庭のために奨学金制度はあるのでしょうか?
-私たちの学校の他に、どんな学校に奨学金を贈っているのですか?
-FUJI奨学金をいただいて本当に嬉しい。安心して勉強できます。
-学校を卒業した後の進路が不安。
-ベトナムは勉強も仕事も大変です。日本はどうですか? -
誰でも最初は自分の行動や知識に自信がもてず、不安なものです。
だからこそ私たちは、本で読んで学んだことを、人と触れ合ったり、実践したりすることで、本当の知識として身につけていくんです。…
皆さんはベトナムで、いろいろな苦労をして学校に行っています。
しかし、どこに行っても、苦労はあります。日本も同じです。
勉強には勉強の、仕事には仕事の、さまざまな場面で困難はありますが、ぜひ皆さんにはそれを乗り越えていってもらいたい。
そしてFUJI奨学金は、あなたたち個人に贈って完了するものではなく、贈られたあなたたちがこの奨学金を使って勉強して、将来他の人たちのために役に立つ仕事をするという、いろいろな人につながっていく意味をもつということをわかってほしい。
とルーンさんが説明する。
また鈴木さんも、ご自身が奨学金を受けながら通学したご苦労やここにいる生徒たちの境遇への共感の気持ちを語られた。
日本側から贈るこうした言葉が、ここにいる生徒たちの心にいつまでもとどまっていてほしいと私も願った。
授与式は1時間半程度で終了。生徒たちが退出した後、日本側のメンバーと先生方が引き続き残って奨学生の状況確認と今後のための話し合いをした。
日本側からの質問は、次のような実質的なことに及んだ。
- -FUJI奨学金の額は他の支援金、奨学金に比べてどうか?
-今の金額で充分なのか?
-学校の新学期は9月から始まるが、奨学金の授与はいつごろが適当か?
-お金以外のコンパスなどの学用品、本などは足りているのか? -
金額について言えば、FUJI奨学金より多いところもあります。
また今の金額で充分かどうかは…充分と言えば充分だし、足りないと思えば足りない。お金とはそういうものでしょう。
先ほど生徒たちの前でも話したように、お金をどれだけいただいたかを考えるのではなく、皆さんの思いの込められたお金をどれだけ有効に使えるかを考えなければいけないと思います。
だからこそいただいた奨学金は、その目的から外れないようにいつも注意しています。
たとえばお金を渡すと、生徒の保護者が生活費として使ってしまうケースもあるんです。だから一時は学校側が管理して、一度には渡さない、または必要なものを購入して生徒に渡し、後で保護者に報告するという作業をしていたこともあります。…
今のところ、学用品、本などの参考書は足りていると思います。
当面の問題はやはり、お金でしょう。学校側としても学費免除、経費免除などいろいろな形で支援はしているのですが、まだまだ充分ではありません。
奨学金の申請の方法については、基本的にはクラスごとに登録申請を行います。友達同士で教えあったり勧めたり、また奨学金を受けている生徒が、自分の家庭の経済状況が良くなったからと友達に譲ったり、いろいろなパターンはありますが、良く機能していると思います。
説明してくださる先生の傍らの奨学生リストを見ると、対象の生徒の家族構成、経済状況が詳細に記されている。
- 父親がなく、母親は日雇い労働者。成績優。
- 住まいは貧困者用仮設住宅。成績良。
- 父親は輪タク運転手、母親は廃品回収業。兄弟姉妹多し。成績優。
毎年見直しがなされるというこのリストが、先生と生徒の対話、努力の結果なのかと、先ほどの先生の話が思い浮かんだ。
先生たちとの話し合いは1時間以上に及び、最後にルーンさんがこう結んだ。
日本の支援者の皆さんに報告する責任があることからこのように細かい話になりましたが、奨学生を選抜するにあたっての学校側の苦労はよく理解できました。
奨学金の額については、もっと上限を増やして家族の経済的な負担を軽くしてあげたいという意見がある一方、一人当たりの額を少なくしてでもなるべく多くの生徒に分配できるようにした方がいいとの意見もあります。
いろいろな状況を検討した上で、こうした意見をこれからの活動に反映させたいと思います。
(高橋・記)
10月16日(日):チャウドックで生徒とピクニック
今日の “ピクニック” 参加者は、ツー・コア・ギア高校の10、11、12年生、計12名。
一足先に学校に迎えに行ったルーンさんたちに連れられて、7時30分に全員がホテル集合した。
休日の遠足スタイルの元気な高校生は、制服のアオザイ姿とはまた違った一面がみられた。
出発の前のウォーミングアップにと、ルーンさんが持ってきたのはフラフープ。ベトナムのスポーツ用品店でよく売っているところをみると、結構ベトナムでは流行っているのかもしれない。
お手本のルーンさんに続き、数人の高校生が恥ずかしがりながらも上手に鮮やかな輪を回して見せてくれた。
宮下さんと鈴木さんも、見事な杵柄ならぬフラフープ。初挑戦した私には、来年の課題として残されてしまった。
カム山に登る
チャウドックの町から30キロほど離れたところにある標高700メートルほどの山。
南部のデルタ地帯には丘陵地がほとんどないが、北西部の国境沿いの一部に “七山” と呼ばれる若干小高い山の連なりがある。
カム山はそのうちの一つで、比較的登りやすい緩やかな山道と草木の茂った豊かな自然の景観とで、地元の観光客を多く集めている。
10月の朝の空はまだ強い日差しもなく、山登りにはまずまずの条件の下、私たちは3時間ほどの山登りを一緒に楽しんだ。
頂上までの山道には人家もあり、寺、神社もありで、参拝客と行商人が絶えず行き交ってにぎやかな印象である。
元気な高校生たちも山登りの経験は少ないらしく、だらだらと長く続く山道にはだいぶ苦戦していた。
平均年齢では高校生を遥かに上回るとはいえ、日本側グループは足腰の強さと山歩きのテクニックではかなり優勢だったのでは?
頂上までの道程の3分の2ぐらいのところで、早めのお昼を兼ねた小休止。
折りしもスコールが降り、屋根の下で皆で写真を取ったり遊んだりと、気長に雨宿りをして過ごす。
午後の予定もあることから、そのまま下山することになった。
カム山については、「メコンデルタ最高峰カム山には、アジア最大と言われた弥勒菩薩像がある。」をご覧ください。
トゥック・ズップ丘陵の要塞
トゥック・ズップ丘陵の要塞はカム山から南に15分ぐらい走ったところにある自然要塞である。
今は緑豊かな観光区として開発されているが、ベトナム戦争の末期にはすさまじい激戦が繰り広げられたところである。
ベトナム側の首脳陣が集結する軍事拠点のひとつとして、72年から73年ごろにはトゥック・ズップはアメリカ軍の攻撃の標的となりました。
1億ドルの戦費で2ヶ月もあれば攻略できるというアメリカ軍の読みは大いにはずれ、結局2億ドルを費やしてもこの地を落とすことはできなかったのです。
それほど入り組んだ、また強固な自然要塞だったんですね。
と、ルーンさんが皆に説明する。
“歴史の授業で聞いたことはある地名だけど…”
“先生から教わった。でも、来るのは初めて”
と、生徒たちは山登りの疲れを多少見せながらも、目の前に広がるごろごろした岩山の奇妙な景観に惹かれてか、皆嬉々としてその中へ入っていった。
ホーチミン市郊外のクチトンネルが人の手による地下の迷宮なら、トゥック・ズップは自然が造った地上の迷路だ。
これが1枚の岩だなんて信じられない。
その岩の間に入り組んだ通路があり、人が行き交い、活動していたなんて、なおさら…。
ところどころでざーっと開けた空間に出会うが、そこが兵士たちの作戦会議や娯楽の場所として利用されていたらしい。
華奢なベトナムの生徒たちはキャーキャーはしゃぎながら、クメール族の少女のガイドに導かれ、するすると岩の隙間をくぐり抜けている。
身重な日本グループはおぼつかない足場の確保に苦労しながらも、それでも巨大な岩盤の隙間からから差し込む細い光の筋や、外の日差しとは対照的なひんやりとした岩山の中の空気、そして何よりもここが決して落ちなかった要塞だという事実を満喫することができた。
トゥック・ズップ丘陵の要塞については、「トゥック・ズップ (Tuc Dup) の丘:南ベトナム解放民族戦線の要塞」をご覧ください。
バーチュックの虐殺現場
最後の訪問地は、バーチュック村の小さなお寺。
境内がそのまま子供たちの遊び場になっていたり、お菓子や小間物を売る屋台も出る村人の休憩所になっていたりする、北部ハノイの農村でも良く見かける光景である。
今でこそ平安なたたずまいだけれど、この地を含んだカンボジア国境のアンザン省15の村で、1978年4月18日から30日、ポルポト軍の侵攻、大虐殺が起きている。
この12日間の犠牲者は4,100人余り。
特にカンボジア国境から直線距離でわずか7キロの、ここチートン郡バーチュック村の被害は甚大で、3,000人以上の村人が至極野蛮な方法で殺害されたという。
このバーチュック村の素朴な寺には、この事件の犠牲者の膨大な数の頭蓋骨を展示し、祀った碑がある。
小さな幼児のものから大きな壮年の男性のものまでが整然と並び、虐殺が無差別で容赦ないものだったことをうかがわせる。
学校で学んだ事実とはいえ、この地を訪ねるのは初めてという生徒がほとんどで、皆表情は真剣である。
寺の敷地内にある小さな展示室には、当時の現場の写真、遺物、犠牲となった村人やかろうじて生き残った人たちの写真とエピソードが陳列されている。
展示物を見ている私たちの後ろで、地元の方らしい老女がところどころで説明をしてくれている。
聞くと、当時の虐殺で生き残った “証人” であった。
“あの生き残った人の写真の女性に、よく似てるなあと思ったわ” と、鈴木さんが言った。
両親も兄弟も殺されて、自分だけ生き残ったという若い女性の写真が、今私たちの目の前にいる老女であった。
ベトナムのメディアや教育機関は、1975年の南北統一の栄光と功績をたたえるだけでなく、若い世代の人たちに侵略戦争の害悪、被害の甚大さ、これからの国づくりのための任務を、当時を生きた人たちの実際の言葉で伝えようと常に意識しているように見受けられる。
奨学金授与の旅で出会った生徒たちも、そのような教育を受けている世代として、これからどのようにベトナムで成長していくのだろう。
チャウドック市内で夕食のフォーを食べてお別れ。楽しい時間をありがとう。
(高橋・記)
バーチュックの虐殺現場については、「ポル・ポト ( Pol Pot) による虐殺の現場:バーチュックの納骨堂 (Nhà Mồ Ba Chúc)」をご覧ください。
10月17日(月):チャウドック→ロンスエン→カントー
チャウドック市場
前日のカム山登山の余波で脚に筋肉痛を感じながら、二晩過ごした川沿いのホテルから荷物を車に積み、出発。今日はカントーへ向かう。
まずは、チャウドック市場のにぎわいを見つつ、ちょっとお買い物。
主食の米、茹でてあるフォー用の麺類、各種野菜・果物 (輸入ものもあり)、魚、肉、とにかく種類がいっぱい、日用品から薬草類まで。8月に亡くなったルーンさんの父上へのお供え物の購入が主目的でしたが、各自、干しえび、ライスぺーパーなどを買ったり、ベトナムスィーツを食べたり、各種塩辛を試食したり・・・。
朝もだいぶ経った時間だったので、市場の雰囲気も何となくのんびりで、売り手の女性たちもアチコチでどんぶりを手に食事をしていたり・・・。
私も、24金のゴールドがピカピカ光る店で、ベトナムの思い出に小さな翡翠の指輪(18金)を購入した。
かわいいデザインで目方を量って26万9千ドン (約2,000円)。みんなから「東京で買ったら2万円だよ」と言われた。
つづいて、チャウドックの小さな運河沿いにあるルーンさん宅にお邪魔する。
人やバイクの通れる橋はいくつもあるが、ワンボックスの大きな車は渡れないので、道(橋)を探しつつ、果樹園が続く中、新築の建物が眼に入る。
ルーンさん宅に着くと、以前に来たことのある人が裏を見て、コンクリート造りの橋が「何だか変だ」と言う。どうやら水かさが増すとボートが通れないとのことで、真ん中だけ壊して板張りに修理したようだ。
デルタ地域の川、運河はほんとうに日常生活に密着している。細いヘナヘナの橋も上手に人々はバイクで超えている。近頃は、川沿いの家々が区画整理のため、移動させられたりもしているようだ。 居間には父上の立派な祭壇がまつられてあり、みんなでお参りをした。父上が楽しみにしていたというこのお家は亡くなる一月前に出来上がったそうだ。
門のそばに高さ2メートルほどの椰子の種類の木があり、その赤い実が印象的であった。
その足で、佐野良子さんが校舎を寄付したビン・チャウ中学校へ寄る。
運河や道路より低い位置に立つ校舎は高床式。1階は自転車置き場になっている。
ちょうど午前の部と午後の部の入れ替わりの時間で、生徒たちの登下校風景がみられた。
ロンスエン
再び、ロンスエンに向かい、アンザン大学学長のボー・トン・スアン先生のお宅を訪ねる。脳卒中でたおれられ、治療の甲斐あって、だいぶ回復された奥様にもお会いした。
大学構内の官舎の居間の立派な仏壇の前で、お茶とザボンをご馳走になった。
ベトナム農業学者の温和な笑顔の奥に、さまざまな業績や体験を思い巡らされたひとときであった。
カントー大学で奨学金授与式
夕方5時前にカントー大学着。
奨学金授与式を行う教室へ、農学部教授のキム先生に案内された。
すでに奨学生たちが集まっている。
ルーンさん、カーさんの挨拶、そして、われわれメンバーも紹介された。
特に、現在、ホーチミンの大学に籍をおいている高橋さんのベトナム語の挨拶は、奨学生から親近感をもって歓迎された。
現在、カントー大学へは20人分、2千万ドン(約14万円)奨学金を贈っているが、農学部学生の実情に応じて大学側で独自に配分しているとのことだった。
カントー大学はメコンデルタ地帯の最大の総合大学であり、日本の援助なども受け、かなり大規模な教育機関となっている。東京農工大学とは姉妹提携関係にあり交換制度もある。
留学体験のある学生も参加した。
奨学金授与の後、われわれ訪問団もそれぞれ大学のロゴ入りの湯飲みのカップをいただいた。
昨年も行われたという学生食堂での懇親会は、事情で急遽、大学の近くのレストランに変更、なべを囲み、ベトナム奨学生、先生方とともにひとときを楽しんだ。
(鈴木・記)
10月18日(火):カントー→ホーチミン市
ローソク寺
カントーのニンキュウホテルで、カントー大学の奨学生たちとともに朝食をとり、観光に出かけた。
カントーの水上マーケットがかすかに見える橋をわたり、最初に行ったのはソクチャンにあるローソク寺といわれるところ。
ここはクメール風のお寺。
民家のような佇まいの本堂には、もう何十年も燃え続けているという大きく、太い灯明とまだ点火されていない柱のような蝋燭が何本もある。
さらにご本尊さまのほかに、虎、猿を含んだ動物群が紙粘土で製作されており、にぎやかで楽しい寺であった。
正式の名は門に賓山寺としるされており、境内でみやげ物も販売していたが、あまりご利益がありそうな感じがしなかった。
ローソク寺については、「粘土で出来た仏様や奇妙な動物がいる寶山寺 (Chua Dat Set)」をご覧ください。
こうもり寺
また、しばらく車に揺られ、こうもり寺へ行く。
こうもりが境内の杜の木々にぶら下がり、小鳥のようにチチチと鳴いている。
木の葉との判別もつかず、夕刻からの活動のためにお休み中のようであった。
自分の勝手な想像から、こうもりは洞窟の中と思っていたら大間違いであった。固定観念は禁物である。
首を上にじっと眼を凝らしただけで、バンコックの観光地によくあるような極彩色をした肝心の寺院には眼もくれず、みんなそのまま帰ってしまった感がある。日が照り暑かったせいもあるが、反省。
こうもり寺については、「数万匹のコウモリが住むクメール寺院 (Chua Doi)」をご覧ください。
ホーチミンへ出発
再び、ニンキュウホテルに戻り、奨学生とお別れ。そして、荷物を積んでホーチミンへの道をたどる。
夕陽のかげるころ、往路で休憩したメコン・レスト・ショップに到着。
庭も売店もおしゃれな感じで、欧米人や日本人観光客を対象にしているようなリゾート風、ベトナム風なのか、どの地方風なのかわからなかったが、とても素敵で贅沢な気分にさせられた。
広々として、藁葺き屋根のようで天井が高く、エアコンは巨大扇風機のみ。
従業員もとてもうやうやしくスマートな立ち居振る舞いである。
えび、魚、風船もちなど料理はもちろんとてもおいしかった。生春巻きの手巻き風も楽しかった。
ホーチミンのサイゴンホテルへ無事到着。 宮下さんは帰国の途へ。
(鈴木・記)
10月19日(水):カンゾー
カンゾーのマングローブ林
小倉さんとウットさんと3人でカンゾーへ出かける。お二人とも何度かこの地を訪れているので、ガイドさんが二人の贅沢なコースでした。
カンゾーのマングローブ林では、小さいえびやムツゴロウがぴくぴく出迎えてくれた。車を降りて泥んこ道に足をとられないように歩いて、船着場からモーターボートに乗る。
かなりのスピードと爆音でマングローブ林を駆け抜ける。魚やえびを採っている人々の姿もみられた。
マングローブ林の一角に船が停められ、少々歩く。小さな小船に乗り換えマングローブジャングルを巡る。途中、ここでもお休み中のこうもりを散見。
戦争でマングローブ林も枯葉剤で大打撃を受けたのだが、植林の甲斐あって大分成長している。私が初めて見たマングローブ林であった。
その後、養殖中の蟹を釣る。良くかかる。育った卵のたくさんあるものを選んで、後で茹でてもらうことにした。
案内人付きで、サギの棲息地を見たり、川にいるワニ釣りをする。ワニに舟から餌をやり、太いテグスで釣り上げる。すぐ飛びついてくるが、釣れるわけは無い。ちょっと力比べを楽しむだけだ。
鉄骨のスロープと階段でつくられた展望台に登るとマングローブの絨毯に囲まれる。
アメリカが手を焼いたジャングルはこんなものではなかったのだろう。
池のそばに猿小屋が2つ。白と黒のギボンが、人の気配を見て池の真ん中の遊び場まで来て、愛嬌をふりまいている。手足が長いせいか、なぜか動きがゆったりとしている。観光客は外国人ばかりでなく、ベトナム人のグループの姿もみられた。
ホーチミン
ホーチミン市内に戻り、ウットさんの案内で、枯葉剤の後遺症のある人々が働いているベトナム特産の漆塗りの工場「Cong TY 27-7」を見学。
係員はそれぞれ、英、仏、日などお客の言語で案内をしてくれる。
韓国スターのコン・サンウやチェ・ジュウのポスターが貼ってあったりする工場内は、和やかな雰囲気だ。コースの最後は作品の展示即売場。それぞれ、お椀やお盆などを購入した。
(鈴木・記)
10月20日(木):ホーチミン
いよいよ今日が最終日。
市内観光はお買い物をしながらということで、歩きまわる。お仕事を終えた高橋さんが、いろいろ薀蓄ある案内をしてくださった。
最後の夜は、ルーンさん、カーさんも一緒に、日本人が経営するというサイゴンホテルの近くの店でフォーをいただく。今回の旅の総括の後、小倉さんと私はみんなとお別れだ。
ルーンさんと高橋さんがタンソンニャット空港まで送ってくださった。
翌朝早く、無事成田へ到着。小倉さんは京成線へ、私はバスへとそれぞれ乗り込んだ。お疲れさまでした。
(鈴木・記)
感 想
約30年前、私にとって2度目の海外旅行だった。
羽田から、バンコック、ビエンチャンを経由してたどり着いたハノイ。
戦後そのものの状況の中で、ベトナムの人々は私たちを歓迎してくれた。
ホアビン、ハロン湾などもちろん北部のみだった。
その後、心の隅に「今頃ベトナムは。」と思いながら、私の関心は南アジアが中心になっていた。
今回、お誘いをいただき、ベトナム南部を訪れることができた。
FUJI奨学基金のことは知っていたが、もう15年も継続しているその活動の一部に参加させていただいた。
ベテラン揃いの中で素人は私だけで、緊張と安心を半分半分にして出かけたが、結果、多いに楽しませていただいた。
途上国における教育の重要性は誰もが論ずるところだ。
義務教育が小学校5年と聞くと、戦前、自分の母親が高等小学校へ行けなかったという時代を思い出す。
中学1年生の幼顔を見ながら、親もかなりの苦労と努力をしていることが察せられる。
奨学金を寄付している中学校、高校そして大学の生徒・学生たちも、戦後30年経って、親の経験をどれほど理解しているかは別に、みんな明るく、まじめな印象を受けた。
いずれ、このうちの何人かは、エリートとして国の指導者になっていくのだろうか。
ベトナムは努力がまだまだ通用する国なのだ。
つい、先行きのつまってしまった日本の状況と比較してしまう。奨学金のプレゼンターをしながら、諸々感じた。
今回、訪れた南部ベトナムは、10月という良い季節のせいか、暑さもちょうど良い加減で過ごしやすかった。
移動中の車から眺める町々も賑わい、畑や田んぼも緑豊かであった。
市場には、様々な野菜、果物、肉、魚、日用品がいっぱいで、自然に恵まれていることが察せられた。
今後も、オートバイから車へ、そして、家にもエアコンを付けて・・・と生活も変化していくのだろう。
チャウドックのカム山に登り、途中、行き交う人々を見ながら、国境を接する地域にいるという実感をもった。
まず生活ありきということが、人間にとって何と重要なことか。
国境とは政治なのだ。いろいろな国の国境地帯を訪れる度に感じることである。
そして、紛争時には一番厳しい場所になる。
島国の日本人とは違う国際感覚の敏感さも育まれているのだとも思う。
つい先日、靖国神社遊就館へ「見学」に行って、50分位のビデオを見た。「日本はやむを得ず戦争にのりだした」とか「愛する人のために戦った人たち」などと、歴史や過去の戦争を説明していた。
話には聞いていたのだが、改めてぞっとし、なぜか、南ベトナム民族解放戦線の作戦会議を行ったトゥック・ドゥップの岩山の要塞やポルポドによる大量虐殺の行われたバーチェック村の寺を訪れた場面を思い出し、頭の中がザラザラになった。
旅行中に、ウットさんが読んでくれたベトナム紙に載った日本関連の記事と重なったのかもしれない。
最近の日本の外交姿勢に対し、アジア諸国をはじめ、各国の良識ある人々からも憂慮の声があがっている。
侵略に反対することの重要性を再び学んだ旅でもあった。
(鈴木・記)