“ベトナム最後の楽園” コンソン島 では、自然豊かで美しい海に囲まれた「楽園」であるコンソン島を紹介しましたが、ここでは、コンダオ収容所を通して、ベトナムの歴史に触れてみます。
コンダオ収容所
「トラの檻」
――この恐ろしい響きをもった言葉は、1970年、アメリカの雑誌『ライフ』によって世界が知ることとなった。 あたかも獰猛なトラを扱うように、植民地支配に抵抗し、あるいは独立のために立ち上がった政治囚を扱う。 狭い檻に閉じ込め、拷問や「懲罰」を加え、多くを死に至らしめる。 パリ和平交渉での大きなテーマのひとつになった。 ――
ここに来る(2014年)前は、この程度の知識しかなかった。
コンソン島には政治囚収容所が1箇所だけあって、それが、頑強な政治囚を収容する「トラの檻」だと思い込んでいた。
やはり、現地にきて、実際に見ることが大切だ。
フランスが1861年、この島に、重罪人たちを投獄する刑務所をつくりました。20世紀に入るころ、フランス植民地政府にとって特に危険だとみなされた政治囚を多く収容していきます。
ジュネーヴ休戦協定によってフランスが撤退した後は、アメリカが引き継ぎ、新しい刑務所もつくり、民族独立のために戦う愛国者・革命家だけでなく、南ベトナムの国旗に敬意を払わない人、文化人などを投獄してきました。
コンダオ刑務所は11の刑務所から成る刑務所システムで、政治犯が20万人以上収容され、2万人が獄死しました。
200人が一部屋におしこめられた雑居房、横になって寝ることができない独房などがあり、政治囚たちは足を鐵具で固定され、時に棍棒などで殴打され、さまざまなかたちの残虐な拷問・虐待が行われてきました。
いま、8か所の刑務所を見学することができます。
この場所に来て初めて、独立を手にしたベトナムの人々の、ここにいたるまで道のりの大きさを知った気がしました。
フランスによる植民地統治時代につくられた収容所
フートゥオン収容所 (Trai Phu Tuong; French Tiger Cages)
フートゥオン収容所は、1940年にフランスによってつくられました。フランスの管理下にあった当初は、下痢、赤痢、チフスなどの感染症にかかった囚人を拘束するための場所でした。
米軍の管理下にあったときは、旗への敬意を払わない人、教化に従わず、思想を改めない者たちを収容しました。
この刑務所の一角に、アメリカの『ライフ』誌が1970年に報道した「トラの檻」がありました。
ここには、屋根のない房があります。灼熱の太陽が裸の肌を焼き、あるいは激しいスコールがたたきつける房で、拷問が行われました。
さらに、天井に鉄格子があって常にそこから看守が監視している、1列30の房が2列並んだ建物があります。狭い1つの房に5人、6人を入れ、騒いだりすると看守が天井から棒でつついたり、石灰を撒いたりするのです。
その天井裏に上っていくと、動物園の檻を見ているかのような錯覚に襲われます。 ここは、フランスによる「トラの檻」です。
集団房
フートゥオン収容所の門をくぐると中庭と細長い建物があり、周囲を、鉄条網がその上に張り巡らされた高い塀が囲んでいます。
細長い建物は、監獄です。
小さな窓が高いところに1つだけある集団房には、コンクリでできた長方形の台があり、そこには鉄の杭が30cmぐらいの間隔で刺さっています。その杭に、捕らえられた人たちの足輪が固定されていました。ひとつの房に、何十人の人たちが閉じ込められていたのでしょう。多いときは200人が押し込められていたとのことです。トイレはなく、悪臭が充満するなかで、捕らえられた人たちは、何を思い、何を支えに耐え忍んでいたのでしょう。
ここは、高い塀が入り組み、迷路にはいってしまったような感覚になります。
トラの檻(フランス式)
フートゥオン収容所の奥に、扉がありました。
この門をくぐると、異様な雰囲気を感じます。
モノトーンの石で固められた外壁、その上にはキラキラ光る色とりどりのガラスの破片がとがって天を向いています。その外壁が、迷路のように入り組んでいました。
真上から容赦なく、じりじりと照りつける灼熱の太陽。日射を遮るものがない青天井の独房。
つよい日差しに晒されて脱色した真っ白な人形が、残虐さを強烈に訴えています。
ここで、拷問が行われていました。
トラを調教するように、天井の鉄格子から看守が棒で突いたり薬品を振りかける監獄
リアルにつくられた人形が、凄惨な当時を再現しています。
こうした酷い仕打ちの刑務所のなかでも、闘争はつづいていました。
資 料
元海軍パイロットでアマチュア写真家のトム・ハーキンは、米国下院の補佐官として、サイゴンにいました。刑務所内の状況を調べるために、ある人の紹介で、コンソン刑務所に13か月間収監されていた元囚人の若者に会うことができました。その青年がほとんどの期間拘禁されていた場所は、「トラの檻」と呼ばれ、そこではひどい扱いを受けていました。彼はハーキンに、その場所は外部から巧妙に隠されていて、だれかの案内がなければ見つけることは困難だと言いつつ、地図を描いてくれました。
1970年7月、米国下院議員のアウグストゥス・ホーキンスとウィリアム・アンダーソン、それにハーキンと通訳が刑務所調査のためにコンダオを訪れました。予定コースを歩きながら、ハーキンは描いてもらった地図を眺めていました。「トラの檻」に近づいていると思ったところで、予定コースから離れて、うろついていると、高い壁と、どこにも通じていないような扉が見える菜園がありました。
刑務所を案内している責任者に野菜について質問しながら扉にちかづき、彼に、扉の後ろに何があるのかと質問しました。扉は使っていないという返事でした。扉を開けるように頼んでも、彼は開けられないと答えます。すると扉が突然開いたのです。内側にいた警備員が、責任者の声を聞いて、開けたのでした。
ハーキンと下院議員たちは、中に入ることができました。そこに、「トラの檻」があったのです。窮屈な「檻」に閉じ込められた囚人たちは、水を求めて叫びました。彼らの体には、指がなかったり、ひどい傷がありました。
ハーキンが撮った写真は、1970年7月17日にライフ誌に掲載され、「トラの檻」の存在が明るみに出たのです。
しかし、コンダオ刑務所が閉鎖されたのは、ベトナム戦争が終結した1975年になってからでした。
フーハイ収容所 (Trai Phu Hai)
コンソン島の中心部、海に近い通りに、高い塀に囲まれた一角があります。ぐるっとまわってみると、「1862年に建設された PHU HAI PRISON」という説明書きが脇に掲げられている門がありました。
おそるおそる中をのぞくと受付があったものの人がいません。
キョロキョロしていたら係員らしき人がやってきました。2万ドンのチケットを買って、中にはいることができました。
見学者は私以外いないようです。ふだんも、ほとんど見学者はいないのでしょう。
1862年建設 その時の名称は、Bagne 1
1956年、No.1 Prisonと改称
1960年4月、Cong Hoa Prisonと改称
1963年11月7日、No.2 Prisonと改称
1974年11月17日から、PHU HAI PRISON
ここは、19世紀後半にフランス植民地主義者によって建てられた刑務所で、コンダオ刑務所システムのなかで最も古く、かつ最大の刑務所です。
フーハイ収容所を一人で見学していたら、制服を着た若い人が「案内してあげる」と、声をかけてくれました。
1932年、あらゆる形態の残忍な拷問にもかかわらず、ここに最初の共産党細胞が設立され、後にコンダオ党委員会に発展しました。
そのあと、兵士たちが集会をしている建物(教会)に私を案内し、会場内に椅子を用意してくれました。
徴兵で集まった兵士だったのかもしれません。歴史知識をクイズ形式で勉強しながら、盛り上がっていました。
フート(Phu Tho)収容所
1925年建設
1930-1960年、CAMP. IIIという名称
1960-1973年、THEN CAMP I という名称
バリ和平協定後、Phu Tho Camp
門が閉じられていて、中にはいることができませんでした。公開されていないようです。
キャンプ3とも呼ばれ、3つの刑務所ブロックから成る小さい刑務所です。
アメリカによる侵略戦争時代につくられた収容所
フービン収容所 (Thai Phu Binh; American Style)
フービン収容所 (Thai Phu Binh) は、1971年にアメリカが建設した新しい刑務所です。ここにはAからHまでの8つのゾーンがあります。各ゾーンには48の囚人用の房があり、全部で384の房があります。
ここは、アメリカ式「トラの檻」と呼ばれています。
狭い通路を挟んだ両側に、鉄格子がはいった天井から監視できる房が、真っ黒な重い扉で封じられ、びっしりと並んでいます。
フーアン収容所 (Thai Phu An)
1968年にアメリカによって建てられました。10の集団房と4つの独房が2列あります。
コンダオ博物館で知るコンダオの自然と歴史
コンダオ博物館
私が島を訪問した前年の2013年に開館したコンダオ博物館には、ウミガメやジュゴンが生息し、サンゴ礁が広がるコンダオ諸島の自然、先史時代から大航海時代・植民地主義の時代・アメリカの侵略の時代に至るコンダオの歴史、それに「地獄」の記録などが、史料や写真、模型などによって展示されています。
コンソン島に来たら、まずここを訪れ、島の自然と歴史を学んでから観光されることをおすすめします。
1970年7月、アメリカ『ライフ』誌に、初めて「トラの檻」の写真と記事が掲載され、世界に衝撃が走りました。
刑務所で監房に押し込められた囚人の様子、コンクリートの壁で隔てられた房と房のあいだでの連絡の様子、看守たちに抗議する囚人の姿、刑務所解放の様子などを描いた絵画が展示されていました。
ベトナムの歴史とコンダオの歴史(コンダオ博物館での展示をもとに構成)
- 3000〜2500年前の墓が、Mieu Ba Hillock遺跡で発掘される。
- 1516年9月中旬、ポルトガル人の船乗り(Fernào Perés De Andrade)がコンダオに来訪。
- 1686年11月、フランス東インド会社が会社を設立するために、島にヴェレを派遣。 彼は、フランスのコンダオ占領を提案。
- 1702年、イギリス東インド会社が群島を占領して、要塞を建設。島に旗を掲揚。 同社取締役のアレン・キャッチポールは、この不法な占領を自ら命令。
- 1793年5月18日、イギリスのマッカーシー侯爵がコンダオに来て、フランス人の行動を調査。
- 1858年、ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的としてコーチシナに遠征軍を派遣。ダナンに上陸し、次いでサイゴンに転じた。
- 1861年、フランス艦隊はサイゴンに上陸し、コーチシナ一帯を占領。
- 1861年11月28日、フランスの海軍大将ボナールは海軍中尉レスペスに、午前10時にコンダオ群島を占領するよう命じる。
- 1862年6月5日、フランスと阮朝大南は第一次サイゴン条約を締結。大南はコーチシナ東部3省 (ビエンホア周辺・ホーチミン市周辺・ミトー周辺) およびコンソン島を割譲、ダナン開港、布教の自由、カンボジアへの自由通行権などを認める。コーチシナ植民地が始まる。
- 1883年癸未条約・1884年甲申条約によって、フランスはベトナムを保護国化。
- 1885年、天津条約で清の宗主権を否定。
- 1887年、フランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともにフランスの植民地となる。阮朝は植民地支配下で存続。
- 1904年、ベトナム維新会結成 (ファン・ボイ・チャウとクォン・デ侯等)。
- 1912年、ベトナム光復会結成 (チャウ等)。
- 1919年、ホー・チ・ミンが安南愛国者協会組織。
- 1930年、香港でインドシナ共産党設立。
- 1940年9月、日本軍25,000が北部仏印(トンキン)に進駐。
- 1941年5月、フランス植民地からの独立を求めて戦う「ベトミン (Việt Minh;ベトナム独立同盟会)」結成。
- 1941年7月、日本はインドシナ侵攻時の基地とするために南部仏印(コーチシナ)へ進駐。
- 1945年3月9日、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ植民地政府を武力によって解体 (仏印処理)、フエの宮廷にいたバオ・ダイ帝にベトナム帝国を独立させた。
- 同 年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾。
- 同 年8月17日ベトミンは総蜂起し、19日にベトナム帝国を打倒=8月革命。
- 同 年9月2日、ホー・チ・ミン大統領がベトナム民主共和国の独立を宣言。
- 1946年、フランスはベトミンの制圧戦争(第一次インドシナ戦争)を開始。
- 1949年、フランスが後押しするベトナム国が成立。
- 1954年、ベトミン軍はディエンビエンフーの戦いでフランス軍を撃破。
- 同 年、ジュネーヴ協定でフランスはインドシナ3国の独立を承認。ベトナムは北緯17度線を境として暫定的に北(民主共和国)と南(ベトナム国)に分かれ、1956年までに総選挙を行い将来の体制を決定することになった。
- 1955年、アメリカはジュネーブ協定に参加せず、ゴ・ディン・ジエムにベトナム共和国(南ベトナム)を成立させる。
- 1960年までにジエム政権下で80万人が投獄され、そのうち9万人が処刑され、19万人が拷問により身体障害者となったとされている。
- 1957年から1960年、コンダオ刑務所の政治犯は正義を守る戦いを続け、5人の政治囚の解放を勝ち取る。
- 1959年1月13日、第15回ベトナム労働党中央委員会拡大総会で、南部武力解放戦争を決議。
- 1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線(NLF)結成。
- 1961年5月、ケネディ米大統領は米軍正規軍600人の「軍事顧問団」派遣、軍事物資支援を強化、クラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用。
- 1965年2月7日、アメリカ軍による北爆によってベトナム戦争が始まる (第二次インドシナ戦争)。
- 1970年7月、アメリカ『ライフ』誌に、初めて「トラの檻」の写真と記事が掲載される。
- 1973年1月27日、南ベトナム外相、アメリカ国務長官、北ベトナム外相、南ベトナム共和国臨時革命政府外相の4者で、パリ和平協定調印。ニクソン米大統領「ベトナム戦争終結」を宣言。
- 1975年3月10日、北ベトナムは、南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始 (ホー・チ・ミン作戦)。
- 同 年4月30日、南ベトナム政府は無条件降伏し、アメリカはベトナムから脱出。コンソン島では、看守たちは拘留室のドアをロックし、船で逃亡。 南ベトナム軍は解散し、治安部隊が略奪を始める。
- 同 年5月1日午前1時に、コンダオ党委員会は、決起を命令。 最初に、キャンプ7で決起、島全体に広がる。
- 同 年5月1日午前8時30分までに、コンダオは完全に解放された。 逃亡しなかった元南ベトナム軍幹部や兵士、看守たちは教会に集まり、司祭の提案に従って代表をキャンプVIIに送り、元政治犯に、管理権限を掌握し、彼らの命を守るよう依頼。これは、革命政府の樹立、「調停と国民和解」という精神の下で行われた。
コンダオ刑務所内での驚くべき闘い
コンダオ刑務所に収監された政治囚たちは、不屈の闘いをつづけていました。秘密の組織、監房の壁越しに秘密の連絡網をつくり、ラジオを極秘に持ち込んで外部の情報を聞き、抵抗の歌をうたい、不当な扱いに抗議し、ホー・チ・ミンの似顔絵を描き、驚くべき意思と知恵で、逆境を乗り越えようと闘っていました。1972年のパリ和平協定から75年のサイゴン解放に至るころのコンダオ刑務所の様子を、下記が記しています。
コンダオ博物館には、コンダオ刑務所に収監されていた政治囚たちが秘密裏に描き、保持していたホー・チ・ミンの肖像画が展示されていました。
2020年6月の下記の VietJo の記事には、フランス管理下のコンダオ刑務所に、秘密裏にホー・チ・ミンの胸像が持ち込まれ、隠されていた胸像を見つけたフランス人看守がこっそりと保管していたということが書かれています。
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