Le朝の神社

カオバンには、<中国との国境にある大きな滝を見たい (中国との国境、迫力いっぱい「バンゾックの滝」)>、<ホー・チ・ミン主席が中国から密入国して革命構想を練ったという洞窟に入ってみたい (ホー・チ・ミンが1941年につくった革命根拠地)> と思って、2017年にやってきました。
そして、できれば <莫朝の残党が都を置いたところを見てみたい> と思っていました。

かつて黎朝を「乗っ取っ」た莫朝 (1527-1677年) は1592年に首都タンロン(ハノイ)を攻略され、その後、中国の清の庇護の下、地方政権としてカオバン(高平)に存続しました。その宮殿については「復和城注)」という記述を見ただけで、これすら誤読かもしれず、それ以上の情報は不勉強で見つけられず、場所ももちろん分かりません。カオバン市から南東方向、中国との国境に面してPhúc Hòa郡があるので、そのあたりだったのかな?と勝手に想像します。

ハノイ市の長距離バスステーションから北北東へ300km、マイクロバスに乗って7時間半、だんだん細く険しくなる山道を揺られてカオバン省の省都カオバン市に到着しました。市の中心部 Hợp Giang に、北から流れてくるバン川 (Song Bang) がつくる三角州があります。この中洲に、もし何らかの城があったならば、天然の堀に守られた絶好の立地だったろうと、空想がふくらみます。

空想はさておき、カオバン市の周辺のお寺や市場見学を頼んだタクシー運転手が連れて行ってくれた「Vua Lê神社」には、おもいがけない面白い歴史が詰まっていました。

カオバン市のホテルでタクシーを手配してもらう

きょう (2017年6月初め) も暑くなりそう(ハノイ市の最高気温が連日40℃を超し、カオバン市でも35℃を超える異常気候でした)なので、あちこちを歩きまわるのはやめて、カオバン市の近郊をまわるだけにします。
ホテルのご主人の勧めで、市内から15kmぐらい離れたところにある青空マーケットと、9kmぐらい離れたところに固まってある寺院、神社、小さなマーケットを見ることにしました。
私は(沿道の写真も撮りたいので)バイクタクシーで行くと言ったのですが、「タクシーはメーターでわかりやすいし、快適だ」と、どうしてもタクシーをすすめるのです。
ご主人が電話で手配してくれたタクシーは、前日バスに乗って通ったPac Bo()へのDT203道路を走り始めました。

Chùa Thạch Sanh (棟憐寺)

はじめに訪問した Chùa Thạch Sanh (棟憐寺) は、現在、Chùa Đống Lân と呼ばれています。この地には、タイ (Tay) 族の神にまつわる伝説があるそうです。

お寺は11世紀後半、李朝 (Nhà Lý ; 1009-1225年; 首都は昇龍Thăng Long=現在のハノイ) のときに建てられました。莫 (Mac) 朝の時代に、お寺は大きくなりました。

古老の話では、以前は寺院に、タイ族の伝説上の人物Thạch Sanhを崇拝するための香炉があったそうです。

寺院は何度も破壊、修復を繰り返し、反フランス抵抗戦争の間、1950年に、塔は再び破壊されました。

青空マーケット

次に行った青空マーケットでは、アヒルやニワトリと同じように、籠に入ったかわいい子犬が何匹も売られているのが記憶に残りました。

青空マーケットは規模が大きく、数百メートルのあいだ、買い物客でにぎわっていました。しかし、どこにあったのか、帰ってから地図を見ても分からないのが残念です。

DT203から北東に向かって、青空マーケットが伸びていた。
莫朝の城塞だった神社:Đền Vua Lê

青空マーケットからDT203をまた戻り、TL203との分岐点からさらに細い道に入ってバン (Bang) 川に沿って南下すると、道路の真ん中に、細長い市場の建物がありました。

マーケットの建物

市街地を通りすぎます。

バン川に架かる橋を渡って、こんどはバン川に沿って細い道を北上します。側溝敷設工事があちこちで行われていて、迂回、迂回を繰り返し、ようやく巨木2本が目立つ広場に着きました。

レ・ロイ (黎利) を祀った黎朝の神社 (Đền Vua Lê) です。

バン川の南にほぼ接したこの神社から南側の1km四方ぐらいが「Nà Lũ城塞」でした。
1038年、この地のNung Ton Phucは自分を「Chiêu Thánh 皇帝 (昭聖皇帝)」と称し、Trường Sinh という国を建て「Nà Lũ城塞」を創りました。しかし翌年、李朝第2代皇帝Lý Thái Tôngによって、滅ぼされます。

2本の樹が高くそびえている。

1407年、中国の明朝がベトナムを侵略し、胡朝の首都タインホアは陥落しました。タイ族のBế Khắc Thiệuは兵士を集め、明朝軍に抵抗しました。1430年に、Bế Khắc Thiệuは自分を「Bế 大王」と称し、Nà Lũ城塞を首都としましたが、翌1431年、後黎朝大越国の初代皇帝レ・ロイ (黎利; Lê Lợi=太祖; Thái Tổ)はBế 大王を鎮圧し、人びとはレ・ロイの神社を建てました。

Đền Vua Lê

1527年、Mạc Đăng Dung (莫登庸) が混乱のつづく黎朝皇帝に禅譲を迫って帝位を事実上簒奪し、莫朝がタンロン(昇龍)に成立します。しかし、黎朝復興を掲げる反対勢力が存在し、1592年、そのひとり鄭松は遂にタンロンを攻略して莫朝大越の第5代皇帝・莫茂洽を殺害し、ここに莫朝は事実上滅亡し、後黎朝後期が成立します。同年、莫朝第8代皇帝Mạc Kính Cung (莫代宗)はカオバンに逃れてNa Lu城塞を占領し、新しい城塞を建てました。その後、莫朝は、Mạc Kính Cung (莫敬恭:1593-1625年)、 Mạc Kính Khoan (莫光祖=莫敬寬;1625-1638年)、 Mạc Kính Vũ (明宗=莫敬宇;1638- 1677年) の3代にわたり、中国の明とそれに続く清の保護のもとにこの地にありましたが、1677年後黎朝との争いに敗れ、中国に逃れたのです。

Đền Vua Lê

1682年に、カオバンの官吏だったLê Thì Hảiは、莫朝の城塞を「黎朝の神社 (Đền Vua Lê)」としました。莫朝の宮殿だった「Lua 城塞」は Lũ城塞遺跡群に属しますが、ちいさな痕跡しか見つかっていません。
フランス植民地主義者との闘争の時代、この黎朝の神社はベトナム共産党の秘密の根拠地でした。

道路の真ん中にある市場 ( Chợ Cao Bình )

神社から、来た道を戻り、橋を渡り、行きにも見かけた小さな市場 ( Chợ Cao Bình ) でタクシーを停めてもらいました。

カオビン市場
カオビン市場の内部。3室に分かれた細長い建物
カオビン市場の野菜・果物売り場
カオビン市場の肉売り場
カオビン市場の商品

ここでは2歳にならないぐらいの女の子が、並んでいる味の素の袋を秤に載せ、それらをビニール袋に入れ、私に差し出してくれました。どこでも、子どもはオママゴトが好きなんですね。

開発している「新都市」?

タクシーの運転手さんは、さいごに、開発中の「新都市」を見せてくれました。ここも、どこだったのか場所は分かりません。(訪問してから3年経つので、いま〔2020年〕は、建物が竣工していると思われます。)

とてもとても暑い日だったので、結果的には、冷房の効いたタクシーにして、よかったと思いました。3時間弱まわって、タクシー代は30万ドン(1,500円)でした。

参考資料

こんかいの説明文は、Đền Vua Lê にあった現地説明碑文をハノイの大学生Ngọc Thắngさんに訳していただき、それをベースに下記資料などを参考に書きました。説明には、私の無知による誤記が多くあるのではないかと危惧しています。ご指摘いただければありがたいです。

ベトナムの考古学雑誌2015年3号の表紙目次にある「莫朝の城 (カオバンの復和城)」

ベトナムの紹介(写真)