コントゥム省
このあたりに住む少数民族バナール族の言葉で、「コントゥム」の「コン (Kon)」は村、「トゥム (Tum)」は湖を意味します。
バナール族の住居は、とても高い高床式住居です。竹でできた楽器やゴング(銅鑼)など、多くの伝統的な楽器で演奏し、踊ります。米から作られ、葦のストロー (カン) で飲む「カン酒」が有名です。カン酒は、ひとつの壺から、大勢がストローで飲みます。
ベトナム戦争のころまでは、このあたりからラオスにかけてはジャングルが広がり、「森の精」が住んでいるようなところだったのでしょう。
2018年10月に訪れました。
コントゥム市
コントゥム大聖堂 (Nhà Thờ Chính Tòa Giáo Phận Kon Tum)
コントゥム大聖堂(Cathedral of Kon Tum)は、いまから100年以上前、1913年から1918年にかけてサクラの木で建てられました。少数民族バナール(Ba Na)族の高床式住居建築様式とローマ様式の建築とを組み合わせた設計で、調和のとれた面積700平方m強の美しい建物です。
敷地にはゲストハウス、民族および宗教製品の展示、共同住宅、孤児院、縫製施設、大工仕事施設もあります。
コントゥム大聖堂は、世界で唯一残っているバシリカ様式(長方形の平面をもち、内部に高窓と列柱のアーケードがある)の木造建築の傑作と言われています。また、ベトナムの美しい教会トップ10のひとつとも言われています。
ちなみに、美しい教会トップ10は、
- Nhà thờ Chánh Toà Thái Bình (タイビン市)
- Nhà thờ Tân Định (ホーチミン市)
- Nhà thờ Đức Bà (ホーチミン市)
- Nhà thờ Phủ Cam (フエ市)
- Nhà thờ Chánh Toà Nha Trang (ニャチャン市)
- Nhà Thờ Tân Hóa (ラムドン省バオロク市)
- Nhà thờ đá Phát Diệm (ニンビン省キムソン県)
- Nhà thờ gỗ Kon Tum (コントゥム市)
- Nhà thờ Domaine de Marie (ダラット市)
- Nhà thờ Lớn (ハノイ市)
コントゥム司教公邸 (Tòa Giám Mục Kontum)
コントゥム司教公邸(Bishop’s House of Kontum)は1935年から1938年にかけ、洋風建築と少数民族の伝統建築とが融合した設計で、 広い敷地のなかに建築されました。 コントゥム省の貴重な木材で造られた、長さ100mを超える3階建ての建物です。
1階はレンガとコンクリートで造られ、上の2つの階は木製のフレーム構造で、瓦屋根です。建物の周囲には、たくさんの木々が植えられています。
司教館は、ベトナム中部高地で最大のカトリックの拠点です。コン・トゥム教区の最初のフランス司教であるマーティン・ジャンニン・フォック(Martial Jannin Phước)司教によって設立され、建物の正面に彼の像が立っています。
コンクロー集会所 (Nhà Rông Konklor Kon tum)
少数民族バナール族の集会所で、建物の前の広場ではお祭などが行われました。大きければ大きいほど、その集落の力を示せるとのことで、その意味ではこの建物は、遺憾なくコンクロー集落の力を誇示したことでしょう。
建物に入るには、段がつくように切り込みを入れた丸太を登っていかなくてはなりません。細いし、高度感があるし、ビビります。
建物に入ると、広い空間になっていて、風通しが良く、涼しさをおぼえました。
なお、VOV日本語放送の番組「バナ族の集会所ロン」に、集会所に関する詳しい説明があります。
コンクロー吊り橋 (Cầu treo Kon Klor)
中央高地で最も美しい斜張橋といわれるコンクロー吊り橋(Kon Klor Suspension Bridge)は、ダクブラ川 (Sông Đắk Bla) の両岸をつないでいます。橋の長さは292m、幅4.5mで、1994年に竣工しました。この吊り橋が建設される以前は、人々は何世紀にもわたり、激しく水が流れるダクブラ川を渡し舟で渡らなければなりませんでした。
少数民族のバナール語によると、Đắkは「水、川、小川」を意味し、Blăh は「激しく、荒れ狂っている」ことを意味します。したがって、 ダクブラ川は「攻撃の川」とも呼ばれます。
また、全長139 kmのダクブラ川は、ベトナムの他の川とは対照的に東から西に向かって流れているため、地元の人々はしばしば「流れる川」とも呼びます。
歴史博物館 (Bảo Tàng Kon Tum)
コントゥムの自然や古代からの歴史、それに少数民族の生活が展示で紹介されています。
抵抗記念館 (Nhà Ngục Kon Tum)
中部高原でも、かつてフランスの統治時代から、植民地主義への抵抗運動が起こりました。この場所には、抵抗運動で捕らえられた政治囚が多く収容された政治犯収容所がありました。その跡地に建てられた抵抗記念館には、抵抗運動の歴史、収容所の模型や政治囚への扱いなどが展示されています。
ハノイ市のホアロー収容所、コンダオ島のトラの檻は有名ですが、カントー市にも政治犯収容所があり、このコントゥムにも収容所があったんですね。ヴィン市にも収容所があって、ヴィン城の跡に建てられ、現在は、その跡が博物館になっていました。各省ごとに存在していたのでしょうか?
路上マーケット
路上マーケットはお寺の門前から始まります。
朝、静かな表通りからTịnh Xá Ngọc Thọ寺のほうに路地をはいると、ひとびとの熱気につつまれます。
路上に、野菜、果物、魚、肉のお店が数えられないほど並んでいます。そして、それらを品定めし、購入するお客さんたちも、大勢あるいています。
青空市場です。売っている生鮮品は豊富にあふれ、お店の人たちはフレンドリーで、写真を撮ってもいいかと訊くとポーズをとって笑顔を向けてくれます。
いろとりどりの野菜が並べられています。
魚介類も豊富です。と言っても高原地帯なので、川や池や田んぼに棲む「魚介」がほとんどです。生きたままの新鮮な商品もいろいろ売っています。
ニワトリやブタも、生きたまま売っていて、新鮮です。
街をぶらぶら
コントゥム市には、隣のジャライ省プレイク市のバスステーションからバスに乗ってきました。50km弱の距離なので、1時間ちょっとで着きました。
ゆるい起伏はあるものの、高原地帯をバスは走ってきました。
コントゥム市は小さい街なのに、カフェがあちこちにあります。しかも、お洒落です。
名物は、「カン酒」です。数人が同時に酒壺から葦のストローで、 薬草のはいったお酒を飲みます。酒壺のお酒の「水 (酒) 位」が下がると、それ以上は飲めなくなる仕掛けが組み込まれています。そこまで、お酒を飲まなければいけません。ストローに透明なつなぎ部分があって、ほんとうにお酒を飲んでいるかどうか、チェックされます。飲まないふりは、許されません。「水 (酒) 位」が下がったら壺に水を足して満水にし、飲む人が交代します。
飲むほどに、アルコール度は下がってきます。
日本ではお酒を小さい杯で飲みますが、酔いが回ると杯にもった手が水平を保てず、こぼしてしまい、ぐいぐい飲めなくなります。薩摩 (鹿児島県) には、「そらきゅう」という、焼酎を飲む円錐形の杯があります。これは卓上に置いておくことができず、酔いがまわってくると手元があやしくなって、焼酎をこぼし、それ以上、飲ませない仕組みです。どこの国でも、ひどく酔っぱらうことがないようにする、酒を飲む工夫があるんですね。
コントゥム市およびインドシナ交差点の地図
インドシナ交差点 (Landmarks the border Vietnam-Laos-Cambodia)
コントゥム市から、知人の友人が運転する車に乗せていただき、北西の方向へ出発しました。向かおうとしているラオス、カンボジアとの国境付近は、ベトナム戦争のあいだ、ホーチミン・ルートの重要拠点でした。
米軍は大量の枯れ葉剤を散布して、ジャングルを「ベトコン」が活動できない地帯に変えようとしました。枯れ葉剤は、半世紀経ったいまでも2世、3世の世代に悪魔の作用を及ぼしつづけています。
激戦が繰り広げられたジャングルも、いまは開墾されていて、ジャングルといった雰囲気はありません。国道の所々に、戦闘の跡、犠牲者を顕彰する碑がありました。
*) コントゥム市とダックトーとのあいだに、「Dốc Đầu Lâu (軍事上の名称 Điểm cao 601; Hill 601)」と呼ばれる慰霊碑があります (階段の下から撮った写真)。バナール族は、ここを「K’Rang Loong Phă (多くの木々を持つ丘)」と呼んでいたそうです。
ベトナム戦争中、南ベトナム軍・米軍にとってこの丘は、ホーチミン・ルートを監視する上でも、北側のダックトー (Đăk Tô) を防衛する上でも戦略的に重要な場所でした。
1972年4月、解放戦線に待ち伏せされた南ベトナム軍は、コントゥムへの退却の途中、大きな犠牲者を出しました。1975年の解放後、多くの死体は頭蓋骨と骨になっていました。人々は丘の斜面からそれらを拾い集め、石を積んで雨風をしのげるようにしました。
途中の Dak To 町には、米軍をうち破った北ベトナム軍戦車が陳列してある「 Dak To 戦勝記念公園」(Di tích Chiến thắng Đăk Tô)がありました。
そこからは、遠くに山が見え、景色が変わってきました。左側の山は、まだ枯れ葉剤の処理が終わっていないと教えてくれました。下半身がつながった結合双生児として生まれ、分離手術を行ったもののお兄さんが亡くなったドクさんは、コントゥム省の生まれです。
少数民族が多く住む地域になってきました。もう、ラオスとの国境検問所です。
検問所の手前の細く曲がりくねった山道を車で登っていきます。尾根道を登って着いたところが、ベトナム‐ラオス‐カンボジアの国境線が交わる 「インドシナ交差点」(Landmarks the border Vietnam-Laos-Cambodia; Cột Mốc Biên giới Việt Nam – Campuchia- Lào ) です。
不思議な感覚です。国境を示す標識は三面を向いています。その周りを、何回もまわりました。何回、隣の国から隣の国へと、「入国」し、「出国」しを繰り返したことか。国と国を隔てる「国境」は、頭の中には強固な観念として存在しますが、こうしてグルグルまわってみると、国境なんて存在してない、と思います。
インドシナ交差点を後にし、ふたたび出入国管理所に戻り、その前にある商店に寄りました。お土産品などを売っている大きなお店が数店ありましたが、閑散としていました。
さいごに、国境の近くにある少数民族の集落に寄りました。ここは、集落ごと新しい区画に移転してきたそうで、建ってまもないような家でした。
コントゥム (Kon Tum) の歴史
最後に、フランスが侵略してきたころからのコントゥムの歴史を概観します。
ビンディン省で起きた西山(タイソン)の乱にさかのぼります(タイソンの乱については、「ビンディン省のチャム塔 (Tháp Chăm)」をご覧ください)。
- 西山(タイソン、現在のビンディン省)乱期(1771-1786年)に、阮岳(グエン・ニャック)、阮恵(グエン・フエ)、阮侶(グエン・ルー)三兄弟は、この地域(中央高地)の少数民族との関係を築きました。
- 1840年、紹治 帝(阮朝の第3代皇帝:在位1841~47年)の治世中、フエ朝廷は、中央高地 (セントラルハイランド)の部族を統治するためにバナール族のボクシームを管理者に補任しました。同時に、キン族と少数民族が自由に取引と交換を行えるようにしました。それ以降、キン族の商人は、商品を購入、販売、交換するためにセントラルハイランドに来るようになりました。
- この間、フランス人も伝道のためにコントゥムに来ました。 1841年から1850年にかけて、フランスの植民地主義者はコントゥムに最初のキリスト教基地を設立しました。
- 1867年、フランスの植民地主義者がコントゥムとセントラルハイランドに侵入し始めました。フランスは悪質な戦術により、この地域の民族グループを分割し、コントゥムとセントラルハイランドを占領しました。
- 1892年、フランスの植民地主義者は、フランス人の宗教指導者ヴィアレトン(Vialleton) 神父が運営する最初の行政機関の建物をコントゥムに設置しました。
- 1904年7月4日、フランスは2つの行政機関の建物を含むプレイク・ダル(Plei Ku Der)省を設立しました。1つはコントゥムに、もう1つはチェオレオ(Cheo Reo)にあります。
- 1907年4月25日、フランスの入植者は正式にプレイク・ダル省を廃止しました。コントゥムとチェオレオの2つの行政機関を含むプレイク・ダル省の全土地は、ビンディン(Binh Dinh)省とフーエン(Phu Yen)省に分けられました。
- 1913年2月9日、フランスはコントゥム省を正式に設立しました。当時のコントゥム省には、ビンディン省から分離されたコントゥム行政機関、及びフーエン省から分離されたチェオレオ行政機関が含まれます。ブンメトート(Buon Ma Thuot)は、以前は独立した省でしたが、1913年に省から行政機関になり、コントゥム省に合併されました。
- 1917年、フランスの植民地主義者はコントゥム省に、タンアン(Tan An)地区と、フランス人の公使の支配下にある少数民族地域を含むアンケ―(An Khe)地区の行政事務所を設立しました。
- 1923年7月2日ダクラク省を設立するために、ブンメトートはコントゥム省から分離されました。
- 1929年2月3日、ベトナム中部のフランス大使 (Khâm sứ trung kỳ) の命令によると、タンフォン(Tan Huong)市はコントゥム市として設立され、したがってコントゥム市がコントゥム省の政治的、経済的、社会的中心になりました。形成の経過とともに、ここの土地は絶えず拡大し、発展して行きます。キン族によって設立された村に加えて、後にコンルバン(Kon Rbang)村、コンムナイ(KonM’nai)村、およびチュフレン(Chuhreng)村などの周辺地域に少数民族の村が増えました。これらの村もコントゥム市の管理範囲です。
- 1929年12月3日に、コントゥム市が設立されました(実際、当時は近隣の少数民族の村と小さい町とから成っていました)。
- 1932年5月25日に、プレイク(Pleiku)はコントゥム省から分離され、プレイク省(現在はジャライ(Gia Lai)省に属する)が設立されました。
- 1943年8月9日にアンケ―はコントゥム省から分離され、プレイク省に併合されました。当時、コントゥム市にはタンフォン市と少数民族の村しかありませんでした。
- 1945年8月25日、全国の人々ととともに、コントゥムの人々は決起して権力を掌握しました。革命政府は、コントゥム省を、ダックグレイ市(Dak Glei)、ダックトー市(Dak To)、コンプロン市(Kon Plong)、コントゥム市の4都市に再編成しました。コントゥム臨時政府はコントゥム市を拠点に設立され、人々が新しい生活の構築に着手できるようにしました。
- 1946年6月26日、フランスの植民地主義者はコントゥム省を攻撃して占領し、この地域の支配装置を再確立しました。1945年の8月革命以前と比較すると、フランスの省から村までの統治システムはあまり変わっていません。省の行政機関の管理担当者はフランスの公使 (Công sứ) であり、その下に郡長 (Đồn trưởng) などです。
コントゥム市内を案内し、いろいろ親切にしていただいたTuyetさんのご両親、 インドシナ交差点まで案内していただいたお父さんとご友人の方、 Tuyetさんのお友達のTrinhさん、本当にありがとうございました。
Trinhさんは、日本語でいろいろ説明をしてくれました。上記、「コントゥムの歴史」はTrinhさんがまとめて、教えてくれました。改めて、ありがとうございました。
以上をまとめるに当たって、
CỔNG THÔNG TIN ĐIỆN TỬ TỈNH KON TUM
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コントゥム省 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
等を参考にしました。