私にとっては、9年ぶりのベトナム、ハノイ訪問、チャットビン中学校は初めての訪問。
 ベトナムと日本の文化に精通し、痒い所をかきむしってしまうほど、いろいろな解説をして くれる日本に在住しているベトナム人のMr.ルーンさん、Mr.カーさん、Ms.ミンさん、さらに ルーンさんの会社・ビロタスのベトナム人スタッフMs.バンさん、Ms.カンさん、それに日本に 留学していたMr.フンさんと一緒にニンビン省・チャットビン中学に行くのだから、こんな 豪華な旅はない。

ベトナム北部

10月7日(木)

 09:00成田空港集合。
 待合室に、あれっ?どこかで見たような人が一人で座っていた。
 元首相の村山さん。
 ルーンさんが挨拶をしていた。
 搭乗の案内があって、いよいよ飛行機に乗り込もうとしたとき、メンバーの一人が ボーディング・パスをなくしたことに気づいた。
 だれかが拾って、空港係員のところに届けてくれていて、無事、搭乗。
 機内は9割近い 乗客で埋まっている。

 11:00一行8名が乗ったVN955便は成田空港の エプロンを定刻で離れ、11:24離陸。
 飛行機は瀬戸内海から九州を抜け、上海市へまっすぐ飛び、そのまま広州市上空を通過して 中国領空をハノイに向かって一直線に飛び続ける。
 ひと昔前は、台湾上空を飛んだり、中国沿海を飛んでいたような記憶がある。

 私の隣の隣に座っていた酒飲みのMs.M1さんは、ドリンクサービスで、まず白ワインと ビールを同時に頼み、そのあとスコッチウイスキーのロック・ダブルを3回お替りしていた。
   私は、スコッチウイスキーのロック・ダブルと月桂冠1合にとどめた。
 通常のダブルは2オンス(約60ml)だが、客室乗務員はコップにミニチュアボトルを2本 空けていたので、このダブルは50ml×2=100mlある。
 機内食をつまみに、飲み出がある。



 私の隣の席のMs.Aさんは、ベトナム戦争のまっただなかのサイゴンを訪れている。
 Aさんは当時、学生でベトナム語に興味があってベトナム留学生に習い、卒業後、財団法人 アジア学生文化協会の「新星学寮」に入り、そこで、今回の旅に同行のMs.ミンさんと 同室だったとのこと。  ミンさんは、この寮で生活していたベトナム人はもとより、日本人たちの憧れの的だった そうだ。

   Aさんからは、ご家庭の様子もうかがう。
 いままで、どこに旅行するときも家族一緒で、今回のように一人で長いあいだ旅をするのは 結婚後はじめてとのこと。
 ご主人はルールに厳格で、赤信号で道路を渡る人を見かけたり、約束の時間に遅れてきた人 がいると、「殺してやる!」「わけわかんない!」と叫ぶそうだ。

 この言葉「殺してやる!」「死刑!」と、それに対する「死刑反対」が、これからの旅の中で、 集合に遅れたりしたとき飛び交うことになる。

 ハノイ・ノイバイ空港へは14:35着陸し、エプロンには14:40に着く。
 イミグレーションの手前に村山さんがいた。
 M1さんは名刺を交換して、お話していた。
 M1さんがもらった村山さんの名刺には、「日本ベトナム平和友好連絡会議会長」 とあった。
 村山さんは特別ゲートを、出迎えの花束をもった女性たちとともに出て行った。
 翌々日ニンビンから戻ってきたハノイのホテルで、一行の一人が、会議に出席して いる村山さんの姿をテレビで見たそうだ。
 我々の荷物はなかなか出てこない。
 やっと取り出せたのは15:35になっていた。

                                            

 13:30に到着していた関西空港発の神戸・奈良・名古屋からの4人、現地合流のミンさん、 ルーンさんの会社のバンさん、カンさんと合流する。
 これで13名がそろい、マイクロバスで15:50出発。



 ノイバイ空港からハノイの中心地まで22km。
 空港からすぐの道路沿いには、CanonやPanasonicの大きな工場が並んでいる。
 また、道沿いの建物は、新しいレンガ造りの建物が目立つ。
 ベトナムではレンガ造りの家は、金持ちの象徴だそうだ。



 道路は良くなり、大きなビルディングも建ち、レストランや商店が明るく、9年前の記憶に 残るハノイの印象とはちがう。
 小学校の授業が終わり、迎えに来る親でにぎわう校門前の雑踏は、9年前のホーチミンでも 見た。



 タンロン遷都千年祭で、赤い垂れ幕や旗、電飾で飾られているので、よけいに明るく見える のだろうか。



 バイクの多さや運転の荒っぽさは変わらない。
 ただし、運転手も同乗者も99%がヘルメットをかぶっている。
 また、古ぼけたホンダのカブはなく、中型のきれいなオートバイやスクーターがほとんどだ。
 自転車はほとんど見られない。



 17:00にホテルに到着。
 部屋から窓の外を見たら、夕日が沈みかけていた。
 湿気がそれほど多いわけではないが、ボヤーっとした太陽で、すりガラスを通して 見ているようだ。



 中心街にあるレストランに、晩ご飯を食べに行く。
 タンロン祭でにぎわっていて、タクシーがなかなかつかまらない。



                                            



                                            

 レストランには、途中からMs.ザンさんが来てくれる。

 ファム・ティ・トゥ・ザン(Pham, Giang Thi Thu)さんは、ハノイ国家大学付属人文社会科学大学の専任講師。
 奈良女子大の大学院を修了(奈良女子大学博士)し、京都にある日本国際文化研究センターに、海外研究員として昨年9月から今年の2月にかけて、半年ほど在籍。
 ベトナムと日本の仏教「日本仏教史、特に江戸時代の浄土真宗の思想」について研究していて、

 「日本仏教における妻帯問題―古代・中世・近世の実態と歴史変化―」
           (奈良女子大学編『寧楽史苑』51号 2006年2月)
 「近世浄土真宗における妻帯論―その人間観と仏教観」
           (『奈良女子大学 人間文化研究科年報』20号 2005年4月) という論文や、
 「福澤諭吉著『福翁自伝』のベトナム語翻訳」
           (ハノイ THE GIOI出版社、2005年) がある。

 私は昨年、日本国際文化研究センターに用事があって行ったとき、ザンさんに会い、 研究について話をうかがったことがある。
 今回の旅に関西から参加しているMs.Kさん、Ms.M2さんとは親しい仲で、 話が弾んでいた。
 ザンさんは我々と食事をしたあと来日し、10月16日午後、奈良市西ノ京町の薬師寺慈恩殿で、 平城遷都1300年、ハノイ建都1000年を記念して行われた「日越文化交流フォーラム」 のシンポジウムに出演した。
 食事後、ザンさんの案内で、アオザイ店へ。タンロン祭でにぎわうハノイ旧市街、 ホアンキム湖畔を見物。


                                            
                                                      

 日本もこの9年間でずいぶん変わったけれど、ハノイの変貌にはびっくり。
 センスのいいレストランやお店ができ、おおきな建物が建ち並んでいる。
 お店という「点」のセンスもいいが、街という「面」のセンスがいい。
 ハノイの市街を歩く若い女性たちは、夏に行ったソウルでも感じたけれど、足がすらっとして、生き生きした顔がきれい。
 ホテルに戻ろうとしたが、タクシーがまったくつかまらない。
 そこで、シクロを4台つかまえて2人ずつ乗った。

                                            

 シクロは赤信号もなんのその、猛スピードであっというまにホテルに戻ってきた。

10月8日(金)

 きょうはチャットビン中学訪問。
 06:00 朝食。早いためか、ホテルの朝食バイキングの会場にフォーの用意はしてあるものの、麺がなくて作ってくれない。  だれかが、「麺がないから、ごメンね」。

 Mr.フンさんが、きょうと明日、付き添ってくれる。
 フンさんは千葉大の建築学科出身で、日本の会社に数年働いたあと、ハノイで「建築と植物 のシステム化」をコンセプトにした建築設計・施工・監理の会社を興したベンチャー企業 の社長さん。
 仕事が忙しそうで、マイクロバスの中にもしゅっちゅう携帯電話がかかっているのにも かかわらず、われわれに同行してくれた。
 半年前に結婚したベトナム人の奥さんはまだ日本に滞在中で、医師国家試験(眼科医) めざして勉強中とのこと。

 ホテル出発07:20
 まだハノイの中心街を走っていると、右手にある「日本病院」をルーンさんが教えてくれた。 この病院(RC造6階建て、延24,817平方メートル)は、ベトナム北部の中核病院である バックマイ病院の1棟として、2000年に日本の無償援助で造られた。

←ハノイ市街










←自動車専用道路から見た農村風景









 途中で、カーさんが、タンロン遷都千年祭について、ベトナムの歴史を講義してくれた。


 ――いまから千年前の西暦1010年7月、ニンビンのホアルー城からハノイのタンロンに遷都した。
 西暦939年に中国の支配から独立を勝ち取ったあと分裂状態になって12藩にわかれていた国を、西暦968年、ディン・ボ・リンが統一した。
 彼は、ニンビンのホアルー(華閭)を首都に定めディン王朝を建て、ディン・ティエン・ホアン(Dinh Tien Hoang、丁先皇)と称する。

 しかし56歳で彼が死んだ後、再び中国が侵略を始めたため、西暦979年、丁皇帝の事業を受け継いだ黎垣(レ・ホアン)将軍がディン王朝を廃止し、自ら皇帝の座に着き、レ(黎)王朝となる。
 その後、李公蘊(リー・コン・ウァン)はレ(黎)王朝を倒し、西暦1009年、李朝を樹立。
 広い平野があるタンロン(昇龍)へと西暦1010年に遷都し、西暦1054年、国号を「大越」とした。
 当時の人口は300万人。

 その後ベトナムは、北からの中国の圧力にさらされつづけて南へ進出し、「越南」となった。

 なお、李朝は、侵略してきた元の大艦隊を、潮の干満を利用して殲滅した。この打撃によって、元は計画していた3回目の元寇を行うことができなくなったとのこと。――


 こうしているうちに、バスはハノイから120km離れたニンビン市に近づき、09:50に 2度目の休憩(ペットボトル調達)をとる。

  ←休憩した店の前でサトウキビを売っている。










 ニンビン省にはいると、車窓から、せいぜい標高は300メートルぐらいだが、ハロン湾や中国・ 桂林の景色に似た、険しい山々の姿が目にはいる。



 ニンビン市をすぎると、2車線の道路の両端には、車が通る部分にかからないギリギリまで、 籾がびっしりと干し広げられている。



 メインの道路から鋭角に左に細い道へ入る。



 このあたりは、カーさんが6歳まで育ったところ。 200年前に海を開墾したところで、稲作を中心とした貧しい地域だ。  道に沿ってある水路に、小さな舟が浮かんでいる。



 コンクリート製の舟とのこと。
 そういえば、グレーの色で、よく見る舟の色ではない。
 さらに、車1台通るのがやっとの狭い道に左折し、慎重に、ゆっくり走る。



 道の左は水路が走り、右は田んぼというあぜ道だ。



 この狭い道には稲藁を広げて干してある。
 ところによっては、積み上げた稲藁が両側から道路をふさいでいて、運転手やカーさんが 車を降りて、稲藁をどかしに行かねば通れない。



 2キロメートルぐらい、この細い道を進む。   コンクリの舟が、ところどころに浮かんでいる。



 さらに進み、左折して小さな橋を渡る。橋のたもとに、小さな肉屋さんがある。



 道はさらに狭く、集落のあいだをすすむ。



道だか、庭先だかわからない。



 突然、チャットビン中学が見えてきた。11:15着。

チャットビン中学校で奨学金授与式


 チャットビン中学校は、2年前の訪問のときの写真で見ていた校舎と比べて、 とっても新しくてきれいな2階建てだ。



 校庭には小さな赤い椅子が並べられ、校舎の2階から、生徒たちが手 を振っている。

  ←今年の校舎










  ←2年前訪問時の校舎










 出迎えの校長の案内で、1階のいちばん端の部屋へ案内された。  校長は、去年変わったばかりで、みな初対面。




 まずお茶を、と勧められるが、挨拶もそこそこに、時間が遅れているので、 すぐに奨学金授与式を始めることになった。
 すでに全校生徒が、校庭の椅子に腰掛けて、待っている。太陽の陽射しがきつい。



 司会の女性教師から、 「FUJI奨学金の授与式のために日本から来た皆さんへの歓迎」 の言葉と、 「チャットビン中学は1975年に創立し、みなさんの暖かい援助をいただいてやってきました。
こうして、日本からみなさんをお迎えして、うれしく思います。……」 という挨拶があった。



 つづいて、キムソン県人民政府代表のヘンさんから、挨拶。
「FUJI教育基金の支援に感謝している。 奨学金をいただき9年間になる。 生徒たちもがんばり、30人が進学できた。 FUJIの援助は、生徒たちにとって、精神的援助ともなっている。
次の世代に引き継いでいきたい。」
 FUJI教育基金から私が挨拶したが、スピーカーが故障で、声がとどかない。



 すぐに授与式に移り、奨学生が10人ずつ前に出て、FUJI教育基金から授与証を手渡した。




 授与式はすぐに終わり、校長、来賓たちと、昼食を食べながらの懇談会となる。
 懇談会の準備のあいだに、40人の奨学生に別の教室に集まってもらい、 用意したアンケートに記入してもらう。




 アンケートは以前に南部の学校で行ったことがあり、その経験もふまえて、 生徒たちの勉学・生活環境が記入しやすいように工夫して準備した。
 数えたら、男子学生は8人だった。
 家族の人数を記入してもらうとき、その数に本人を入れるのか入れないのか等、 生徒によって解釈がちがわないように、FUJI基金のベトナム人、 チャットビン中学の先生たちが生徒たちに説明しながら行った。
 生徒たちはみな、まじめに、一生懸命記入してくれていた。


チャットビン中学校での懇親会

 懇談会は、カーさんの挨拶で始まる。
 教育委員会のナンさんから、 「毎年、生徒たちは、よく勉強しています。
国境を越えて来てくれた皆さんの心を受け取ることは名誉です。
生徒たちが安心して学校に行けるよう、教育委員会としても生徒たちのために 努力してがんばらねばと思います。
皆さんの心は私たちにも励みとなっています。」と挨拶。

 料理を食べながら、ミンさんたちに通訳してもらい、懇談。



 懇談会の最後に、教員の会会長が、用意していた原稿を読みながら挨拶。
「夢のはばたき。勉強したい気持ちに火をつける。
第二次世界大戦で日本は破壊されたが、教育があって、その後の発展をみた。
私たちは、FUJIの援助で火をつけたい。
子どもたちへの援助に感謝したい。
さらに、高校に援助をできないだろうか。
ここで4年間成績のいい子が高校へ行ければ、大学へ進学する機会を 与えることができるのだが。」



 学校を去るとき、2年前に贈呈したPCを見てきた。
 これで、学校との連絡がスムーズにできるようになった。



 学校の校舎は、2年前に訪問したときと変わり、2階建てに新築されていたが、これは、 支援者の保証で借金をして建て替えたとのことだった。
 政府による設備更新を待っていてはいつまでたっても教育環境が整わないために、 こうした手法で新築し、毎年借金を返していくそうだ。

 校門のところでマイクロバスに乗るとき、学校帰りらしい小学生が、興味深げに私たちを 見ていた。




10月8日:石教会

チャットビン中学をあとに、来たとき曲がった小さな橋まで戻ったところで、 カーさんの実家に寄ることにしました。
 まず、カー家の廟にお参り。
 中庭には、モミが乾燥させるために敷き詰められている。



 カー家の表札。漢字で書いてあった。

 

[ファットジェム( Phat Diem)教会]

チャットビン中学からの帰途、ニンビン(Ninh Binh)省キムソン(Kim Son)県 Toa Giam Muc Phat Diemにある通称「石教会」(ファットジェム教会)に寄りました。
ここには、2年前のFUJIの旅でも立ち寄っています。
   
門をはいると、大きな教会が目に飛び込んできました。


                                              
 
てっぺんの十字架を、エンジェルたちが守っています。



 ファットジェム教会は、ハノイの南130kmのところに位置し、Tran Luc神父によって1875年から1899年にかけて建築された。この教会の敷地には、たくさんの東洋風の礼拝堂がある。大聖堂は、4つの礼拝堂、3つの人工洞窟、ひとつの石の聖骨箱に囲まれている。
 大聖堂は、長さ74m、幅21mあり、1本の木の幹からできている柱で支えられている。
 正面の池の中の島に大きなイエス像が、両手を高くかざしてそびえている。
 ファットジェム教会とは、このような建物群の全体をさしています。



 先ほどの教会と思った建物は、礼拝堂のひとつで、大聖堂はもっと大きな建物でした。



 正面は、石で出来ています。 

 側面は、日本の古いお寺の講堂のように見えます。




 中にはいると、天井は木で組まれていて、石造と木造が合体したユニークな建物です。

 

 周りには聖書を手にしたレリーフ、屋根には鷹を傍らにはべらせ、 手に剣を持っているように見える牧師の像がある。

 

 このあと、ニンビン市を過ぎ、今夜の宿泊先トゥィ・アン・ホテルに向かう。

 

 ホテルは国道1号線から西に400mぐらい入ったニンビン市街ですが、まわりは空き地 の殺風景な場所にありました。



 まだ出来たばかりの近代的な建物で、マウンテンバイクのレンタル自転車が入り口脇 に並んでおり、2階に大きな宴会場があり、1階にも、ピアノのある広い宴会場 がありました。
 2階で晩の食事をしたあと、フンさんが交渉して1階のピアノを使わせてもらえる ことになり、M3さんのピアノ独奏をみんなで聴きました。


10月8・9日:ニンビン市の村を自転車で走る

 宿泊したニンビン市のトゥィ・アン・ホテルは、あたりに何もない、荒野のまんなかに 突然あらわれた近代的なホテルだ。  ホテルの玄関の前には、まだ新しい、 マウンテンバイクのレンタサイクルが並んでいた。
 部屋に荷物を置いて、さっそく借りる。
 10ドルとのことだったが、午後5時という遅い時間だったので、 3ドルにしてくれた。
 しかも、翌日の早朝にも1時間半、乗ってしまった。
 一人であたりを走る。
 陽が沈んできた。



 しばらく走ると小さな集落があり、お寺があった。

 

 お寺に入ろうとしたら、犬が2頭でてきて吠え立て、威嚇してくるので、後ずさりしながら、 その場を去った。
 タイの地方の小さなお寺で、同じように犬が出てきて恐怖を感じたことを思い出す。
 お寺の先に、集落がある。



 次第にあたりが暗くなり、自転車にはライトがないのでホテルに戻った。
 すると、ミンさんとAさんが、これからレンタサイクルで出かけようとしていたので、 再び一緒にひとまわり。



 ミンさんとAさんと、翌朝5時半にホテルの玄関で待ち合わせ、自転車に乗ること を約束する。
 翌朝、5時半に集まったのは、ミンさん、カーさん、フンさんと私。
 4人で、少しとおくまで自転車で走った。
 昨夕はよく見えなかった遠くに、人の姿があるので、田んぼのなかの道を しばらく走る。
 小さなお寺がある。



 さらに走ると集落があった。
 朝のマーケットには、すでに買い物客が集まっている。



 肉屋さん 

 豆腐屋さん 

 八百屋さん 

 別の道でホテルに戻ることにする。  太陽が昇ってきた。



 ホテルの近くには造成中の公園もあり、2年後には様子がすっかり変わっていそうだ。



 ホテルの部屋にあった案内には、エコツーリズムについて書いてあった。 ホテルの社長は、そんな計画を見越して、いまは何もないところにホテルを建てたのだろう。



 ニンビン市は、まだまだ昔の生活だった。
 夕方、陽が沈むころ、畑仕事を終えて自宅へと帰る牛たち、……。



 小さな子供が、十数頭のヤギたちに草を食べさせ、また家まで追っていく。



 早朝、農家から水田へのあぜ道に、雑草を食べ水田を耕す合鴨たちの群れを追っていく、 のんびりした農夫。




10月9日:中学生たちとヴァンチン鍾乳洞へ遠足

 10月9日、チャットビン中学の奨学生と遠足に行く。

 トゥィ・アン・ホテルまで、大型バスで寄ってもらう。



 ここで、我々のマイクロバスと大型バスに分乗して、8時に出発。
 ルーンさんが、我々、中学生、それから先生たちの名札(ベトナム語とカタカナ) を用意してきていて、胸につける。このおかげで、中学生たちと片言の会話が成り立つ。

 マイクロバスのほうは、Aさんが日本の童謡に手振り・身振りの振り付けをして、 中学生たちといっしょに歌って楽しむ。



 また、中学生たちの自己紹介もあった。みな、恥ずかしがらずに姿勢よく立ち、 話をするのが印象的だった。



 バスは国道を左折し、川沿いのいたんだ舗装路をゆっくり進む。
 気分が悪い子がでてきた。
 バスに乗る機会がない子たちで、かわいそう。
 バスは1時間以上走って、止まる。
 あたりには、何もない。休憩なのか、トラブルなのか分からない。
 15分ぐらい、その場にいただろうか。日差しがきつい。



 川に、舟が2艘やってきた。  舟に分乗して、上流へ進む。



 ゆったりした景色が見えてくる。



 足でオールをこいでいる。



 川の三叉路を右に曲がると、浮き橋が行く手をさえぎっている。
 すると、若い女性が橋を切り離し、舟が通れるようにしてくれる。
 天の橋立に、回転して舟を通す橋があるが、その手動版だ。



 桂林の両岸の奇岩のような、あるいはハロン湾の島のような景色が広がってくる。



 流れはゆったりしている。  網をうつ姿もある。



 遠く、右手の岩山の絶壁の中ほどに山羊がいると、子どもたちが騒いでいる。
 野生の山羊が数頭いた。目がいい。

 この川は「黄龍川」といい、さらに上流を進むと、2年前に遠足に行ったタムコック (Tam Coc)へ続いているそうだ。
 このあたり一帯は、今後、エコツーリズムの観光資源として開発されていくようだ。
 近くには、「ケインガー温泉リゾート(Suoi Nuoc Nong Kenh Ga)」もあるそうだ。

 船着場で、舟からおりる。



 水溜りで、水につかっている小さな子がいた。
 われわれが大勢で通りかかったので、びっくりしているのか、固まっていた。



 こんどは歩きだ。30分ほど、黙々と歩く。



 ようやくヴァンチン鍾乳洞(Dong Van Trinh; Van Trinh Village, Gia Minh Commune, Nho Quan Dist., Ninh Binh)に着いた。
 山の階段をのぼったところに入り口がある。
 元気な子どもたちが、休んでいる大人たちを置いて、洞に向かっている。
 私も負けじと、一緒に階段を駆け上った。
 内部は暗い。
 鍾乳洞の中は、広大な空間が広がっている。
 入り口からは、その空間の底へむかって、ゆるい階段を下りていく。



 電球が、数個ついているだけで、目が慣れるまでは、一歩一歩、段を確かめながらすすむ。
 巨大な鍾乳石、石筍が、「無造作」に並んでいる。
 日本の鍾乳洞のように整備されておらず、柵はない。



 子どもたちは、石筍を攀じ登る。



 大冒険に興奮している。




 私も、子どもたちについて、奥へ、上へ、進んだ。



 ひとしきりまわったころ、懐中電灯を持った案内の人と、先生や一行がやってきたので、 冒険はおしまい。



 この洞窟は200年前から知られていたが、当時、官僚たちがこのなかで悪いことを していたので、怒った農民たちが入り口を閉じてしまったそうだ。



 帰りは、もとの道を歩く。
 疲れた人は、バイクタクシーの荷台に乗って船着場へ。
 途中、山羊に草を食べさせながら移動している男の子とすれちがった。
 この日は学校がお休みだから、家の手伝いをしているのだろうか。



 舟に乗って、バスのところに戻る。



 おなかがすいた。もう12時5分だ。
 国道沿いにあるレストランに午後1時着、一緒に昼食となる。



 食事前に、ルーンさんが変わり消しゴムのおみやげを中学生にとってもらっていた。


                                            


 昼食には、山羊料理が2品でてきた。



  食事を終え、2時半に中学生たちとお別れ。



 ハノイに戻る。



 ハノイでの夕食には、ミンさん夫妻がきてくれた。



 ダン・ニャット・ミンさんは、1938年ベトナム・フエ生まれ。映画監督。
 名刺には、「Film Director – Writer – Journalist」とある。
 60代前半にしか見えない若々しさで、びっくり。

 ミンさんは記録映画の制作を手掛けた後、1975年から劇映画の制作を始め、代表作に「10月になれば」(1984年)、「河の女」(1987年)などがある。
 NHKと共同制作した「ニャム」(1995年)は国際的水準を示すベトナム映画の代表作として、数多くの国際映画祭に招待されている。
 1999年、第4回日経アジア賞文化部門を受賞。

 最近では、2009年制作「きのう、平和の夢を見た」が、「福岡国際映画祭2009」で 上映された:

「2005年の春、ハノイに住む年老いた母親のもとへ、1冊の日記が届けられる。
 1968年から2年間、国家解放戦線の戦地病院で働いていた若い女医が、死の直前まで 書き綴ったノートだった。
 その古い日記は、ベトナム戦争に従軍したアメリカ人将校が戦地で見つけ、 35年間保管していたもの。

 ベトナムで出版され、国中にセンセーションを巻き起こす。」

 ミンさんは、杉良太郎が、ベトナムの中学生に映画を作らせたり、他国の生徒たちと一緒に 作らせたりしている活動を称えていた。

 ピアニストの奥さんも、チャーミングでした。
 ベトナムのお祖母ちゃんは、孫の世話がたいへんだとのこと。
 孫が生まれると、とくに娘の側の親は、しばらくのあいだ、面倒をみるそうだ。
 ハンガリーで医者をしているお嬢さんに最近子どもが生まれたとき、半年間、ハンガリーに 行って面倒をみたと、目を細めながら話していました。

 あしたは、タンロン遷都千年祭の式典の日。
 街は、夜おそくまで賑わっていました。


10月10日:タンロン遷都千年祭

 きょうは、タンロン遷都千年祭の記念式典の日だ。
 ハノイ市街は、式典会場を中心に厳しい交通規制が敷かれ、人々で大混雑が予想されると のことだ。  ハノイ市民は、きょうはハノイ市の中心街には近寄らず、式典を見るならテレビに限る をきめこんでいるらしい。
 こんな状況で、タクシーもつかまらないので、式典を見るのはあきらめざるをえない。
 前日夜の打ち合わせで、きょうの行動は、朝8時までに朝食をとり、その段階で 得られた情報を参考に、決めることになった。

 私は、みなより一足早く、きょうの夜、帰国するので、朝食前にホテル周辺を散歩する ことにした。
 同室のカーさんがつきあってくれた。

 ようやく、ハノイの1日が明けてくる。



 もう、ホテルの近くの路上では、お店が開いている。



 近くの「統一公園」にはいってみる。
 入場料は1人4,000ドンで、8,000ドンを支払う。
 実は、今回の旅で、はじめてベトナムのお金をつかった。
 両替する間もなく移動したし、食事もホテルもおやつの果物も、すべて賄ってもらっていて、 お金を使う必要がまったくなかった。
 前々日のレンタサイクル代は、もっていたドルで支払った。
 前回(8年か9年前)のベトナム旅行で残ったドン紙幣をもってきていた。
 しかし、数年前に新札が発行され、旧来の高額のドン紙幣は1年間の交換期間をすぎると通用できないことになっていたのだそうだ。
 したがって、使えるドンは、小額紙幣を集めても1万5,000ドン(70円ないし80円)しかなかった。

  公園のなかに入ると、音楽がきこえてきた。
 そちらに向かうと、中高年の女性軍団が、美容体操の最中だった。
 圧倒され、とてもカメラを正面から向ける勇気がでてこない。
 隠し撮りのように、撮っているとはみられないように、やっとシャッターを押せた。



 公園を進むと、sフォークダンスをしている男女がいる。
 中国人はフォークダンス、社交ダンスが大好きだが、ベトナムでもはやっているようだ。



 池のほとりを歩いていると、瞑想している集団がいた。
 池のところで、大勢が瞑想している。




 公園の別の門から出たら、路上で肉を売っていた。
 1日に、どれだけの肉を売るのだろう。
 売れたら、近くの冷蔵庫から肉を補充するのだろうか?



 そうこうしていたら、ホテルに戻ったのが8時近くになってしまった。
 カーさんと私が朝食を食べに現れないので、どうしたのだろうかと心配をかけていた。
 やはり、市街地の交通規制がきびしいので、ぶらぶら中心街のほうに歩いていくことになった。

 まだ朝10時を過ぎたばかりで早いからか、それとも式典のある休日で買い物をする雰囲気 ではないのか、中心街のマーケットにはほとんど客がいない。



 でも、道には、天秤棒で賞品を運んでいる人、路上で肉を売っている人がいる。




 鳥の丸焼きも、山になって売られている。



 早めの昼食にフォーを食べ、青年劇場を訪れる。
 青年劇場の責任者を昼食に誘ったようだが、交通規制で混雑しているなか、 中心街まで出てきたくない、とのことだったそうだ。
 ベトナム青年劇場は、2010年11月20日(土)と21日(日)、あうるすぽっと (豊島区舞台芸術交流センター)の「国際イプセン演劇祭」で、「人形の家」を上演する。



 劇場には、大道具の手入れをしている人が1人いただけで、がらんとしていた。



 創立者のレリーフがある。



 のんびり、ホテルへ戻る。

 

 路上の床屋を見つけた。



 夕食をみなと一緒に食べたあと、ルーンさんに空港まで送っていただき、成田へ一人で戻った。                                                                         (齋藤・記)

10月11日 ハロン湾へ


 ”コン・ドアン ホテル”をAM7:15出発。
 1000年の歴史を持つ古都ハノイは、ベトナムの政治・文化の中心地。
 緑が生い茂る街路樹やホアンキエム湖とタイ湖の大きな湖もあり、自然にも恵まれ街の中は、昨日はさらにイルミネーションが華やかで、美しいフェステバル一色であったが、今日は打って変わり、街の中は穏やかな雰囲気。
 ただし、相変わらずバイクが朝から追い越し、お構いなしの騒々しいエネルギーシュなベトナムの人々を見ながら、ハロン湾めざして、あとにした。

 途中休憩タイム。
 ”テフェンミ”により15分が45分、トイレよりお土産に熱中する女性特有の買い物好き。
 また、女性軍のなかで値切り屋M1がいて、交渉係。
 お店としては、厄介客であるに違いない。(間違いなし・・・)
 何人の方には、お役に立てたのでは(自画自賛!)。
 しかし、専用車で待っている男性軍は、文句の二言五言も言いたい。カーさんが言って いるのを引用すると、”ワガママ・キママ・ソノママ”。

 ホンガイ石炭の町を通り、ハノイからハロン湾まで約3時間(170km)。
 スピード制限40km、”サイゴンホテル”着後、トウアン・チャウ島に3200mのリゾート雰囲気漂う橋をスポーツカー(専用車)で風をきって走る。
 最高・・・・ホテルから10km(15分)。

 この島は、ディズニーランド風な感じでもなく、ただ広い。
 国営化と思いきや、何と資産家の個人の”アイランド”らしい。
 島と言えない、何故ならを感じたから……。
 間違っても、私の遠い親戚の”叔父”ではない。

 ここで”イルカショウ”を子供に帰ったつもりで見学。



 イルカ調教師の笛を無視して曲芸をしない”ワガママ・キママ・ソノママ” のイルカ。



 ルーンさんが、いつも私たちの集合のときに使う、首に掛けている”ピー”の笛を、気を利かせて吹いていたらきっと、すぐ素直に曲芸したと思う。
 ルーンさん、いつか機会があったら、お願いします。
 調教師の方が助かると思いますヨ。
 また、アザラシが曲芸が良くできると餌をその都度あげる調教師のしぐさを、”ある方”が実にアザラシ以上に表現が面白く、笑える。
 あそこに残して、お客さんに見せたかった。
 毎日満員御礼、しかも”アオザイ”を着てアザラシより高く料金が徴収できると思う、間違いない。
                                                                                          (松永・記)

10月12日 ハロン湾クルーズ

 ベトナム随一の景勝地といわれるハロン湾の面積は約1600K?。 
 いち早く観光地化が進み、深い翡翠色の海に無数の岩が林立する水墨画のような眺めが 中国の景勝地にたとえられ、海の桂林とも言われる。
 ユネスコの世界遺産、地層の世界遺産の2つに指定された幻想的な風景を 漂わせている。



 しかし、昨今リゾート化し、カジノもあり、ホテルラッシュである。
 クルージング専用船に乗り、鍾乳洞を30分見学。
 自然の宝物であり、自然の恵み。
 ”竜が降り立った場所”、まさに、その言葉どおりの自然界である。

 その後、海水浴場へと向かう。
 ナイスバデー、その他もろもろ、ご想像にお任せします……。
 しかし皆さん、泳ぎは本当に上手でした。
 30分で上がり、クルージング専用船で昼食後、ホテルに戻る。

 まもなくサイゴンホテル出発、ハノイへ・・・・・・
 移動中、新しい橋がいくつも建てられ、高度成長の勢いが垣間見た。
 金利は、いまや10パーセントとか。
 日本とは、えらい違い・・・・・

 コン・ドアン・ホテルに夕方PM6:30着。

 夕食は、ルーンさんのお知り合いのコンさん、島田たか子さんを迎え、バイキングレストランでの会食。
                                                                                           (松永・記)

10月13日 ハノイ観光・帰国

 AM6:30 M2さん、M3さんの二人はベンチェへ。

 ホテルでの朝食を早い時間に取った方の話ですが、中国人団体客が大勢で、バイキング式なのに、食べるものがほとんどなかったそうです。
 フォークもなく、フォーをナイフで食べた方がいたらしく、よっぽど、お腹すいていたのですね。
 手で食べなくて良かった・・・

 朝食後、タンロン・ハノイ城王宮跡を見学。
 11世紀から18世紀までの古代ベトナムの都であるタンロン都の、最も重要な部分であった。
 ここでは東洋と世界の文化の交流が行われたから、これは1000年にわたり、ベトナムの政治、文化の中心地であるのだ。
 フェステバルはタンロン・ハノイ城王の歴史の式典であった。

 ブンピオー大学、昔の国士舘すなわちエリート中のエリートしか合格できない大学。
 合格者の名前が石に刻まれているのですが、はるか昔の歴史を感じるくらい、名前が読み取れない。  ここで、3人の女子大生(4年経済学部といっていましたが)、なぜか日本語が堪能。
 「日本人ですか?」
 「そうです」と返事すると、「嬉しい!! キャー!!」と私に寄ってきて、「宿題、宿題」と興奮気味。
 落ち着いて聞いてみると、「日本人と写真を撮ってくるように」とか。
 何の理由なのか分からなかったのですが、礼儀正しくお願いされたので4人で写真を撮る。



 私達の騒がしさに、HUJI奨学金のグループも集まり、皆で記念写真。



 そこで3人に私の名刺を・・・
 その後、お土産の買い物スーパーへ。
 コーヒー、インスタントのフォー、ベトナムしかない調味料等など・・

 ホテルに戻り、チェックアウトのため、荷物の整理を終えロビー集合。  皆さん荷物を再確認して夕食のレストランへ。
 お料理は、キノコ鍋。  美味しいのは、モチロンのこと。

 カーさんのお知り合いのMr. NGUYEN CHI TUYENが加わる。
 赤十字関係にかかわられていた方で、今は、老人問題の研究者としてご活躍されている。



 宴もたけなわ。
 最後の夕食とあって、皆さん楽しく和気藹々で終わる。

 空港へと約1名は酔っ払いながら、成田組6人(S2さん、Oさんご夫妻、M4さん、Aさん、M1)、関空組2人(Kさん、S1さん)、それぞれ思いを馳せながらノイバイ空港を出発し、14日早朝、無事、成田、関空に到着。
 本当にご苦労様でした。

 3人の女子大生の1人Miss Tuyen Nguyen Chiから早速メールが届いています。
 「皆さんに敬意と感謝をします。」  そのような感じでした・・・  
 2度ほどそれからメールがきています。 Chiさんは、「東京とハノイでのメールが出来てとっても嬉しい」と、そのような感じでした・・・

 私の Field work レポート お・し・ま・い。 By 松永

ベトナム南部:10月13日~15日

 今年度のFUJIの旅参加者のうち2名が、13日朝からホーチミン経由ベンチェにゆき、 16日朝、無事帰りました。
 ベンチェには、ルーンさんの姪ごさんのトウ・フオンさんと通訳、 それにホーチミン師範大学3年のハーさんとその友人のベンチェ省出身のタオさんが 同行してくれました。

10月13日 ベンチェ特別支援児学校


 は、刺繍クラスの生徒20人 “ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会”会長レ・フインさん、副会長ゴックさん、刺繍クラスの世話をしているデイエップさんがホテルへ来て、全員で会食。
 生徒達たちもよく食べ、楽しい時間を過ごしました。




 「みんなの今後の希望は?」と聞くと、
 「一緒に刺繍をしたい!」ということでした。
 北部のハロン湾へ行く途中で見た、下の写真のような刺繍施設は南部にはなく、あのようなものがあればいいと思いました。

10月14日 ベンチェ特別支援児学校刺繍クラス


 翌日学校へ行き、もういちど生徒たちに会いました。


                                            



                                            


 特別支援児学校校舎は現在の敷地の後に建設中、基礎部分まで進んでいました。




 工事用の車両は学校敷地を通らずに入ることができ、教室は壊さずに済みました。
 新しい校舎は少し小さくなり、生徒数は今と同じ200人の予定だそうです。

 ハーさんとタオさんは生徒たちに、折り紙で羽を動かす鳥を上手に教えてくれました。

10月15日 ホーチミン市・ツーズー病院

 ホーチミンでツーズー病院の ドクさんの双児、フシちゃんとアン・ダオちゃんの1歳のお祝いに参加しました。




 2人は日本の子供にくらべずっと小柄でしたが、元気で賢そうに見えました。  お祝いには、南蕃カラスウリで染めた伝統のお赤飯が出ました。

(宮本・記)