Queen's Beach

ビンディン省の省都クイニョン市は、10世紀末から15世紀にかけてチャンパ王国の都であったヴィジャヤの外港として栄えました。
永楽帝の命によって1405年から1430年に7回行われた「鄭和の南海遠征」航海の寄港地となりました。
ビンディン省では、2018年にクイニョン大学に「日本語-日本文化センター」が開所し、2019年には、「日本・ビンディン錦鯉センター」の開所、泉佐野市との友好交流覚書調印が行われています。
写真は、2018年10月訪問時のものです。

クイニョン市市街地風景

クイニョン市は、海岸線から広がっています。

クイニョン市街地は、国道1Aから約10km、海に向かったところにあります。そして、ここで分岐した国道1Dは海岸沿いに南下し、35km先で再び国道1Aに合流します。

クイニョン市街地の海岸沿いの道路。右側の公園に、2人の男性の像が建っています。

Tượng đài Nguyễn Sinh Sắc – Nguyễn Tất Thành(グエン・シン・サックとグエン・タット・タイン)の像です。
ゲアン省に1890年生まれたグエン・タット・タインは、1901年に官吏試験に合格した父親グエン・シン・サックのグエン朝任官とともにフエに移り、1909年5月18日から1910年6月30日までビンディンに滞在し、1911年6月5日、サイゴンからフランスに旅立ちました。のちのホー・チ・ミンです。

早朝の街角。

小学生を学校に送迎する親たち。学校の周辺で、朝食を外食しています。
道端の屋台で、朝食。美味しい。

クイニョン市にも、カフェがたくさんあります。

クイニョン大学に付属して、日本語-日本文化センターがあります。2018年4月に開所しました。

Quy Nhon University

クイニョン・ビーチ

クイニョン市は海に面していて、きれいなビーチが弧をえがいています。1996年に訪れたときは竹で編んだたくさんのお椀舟が海上で漁をし、砂浜は汚れていた記憶があります。ビーチに沿って公園があるのは変わりませんが、檻にサルが入っていた小動物園は痕跡も残っていませんでした。

ダム・マーケット (Dam Market; Chợ Đầm)

次の朝は、泊まっているホテルからクイニョン駅前を通って、1キロちょっと離れたダム・マーケットに行ってみました。日本に技能実習生として来ている知り合いから、クイニョンに行ったらダム・マーケットで朝食を食べるといいよ、と教えてもらったからです。

ダム・マーケット

クイニョン駅からダム・マーケットへ行く裏通りにも、食べ物の屋台や、ミシンで何かを縫う屋台などが連なっています。マーケットに近づくにつれ、生きたアヒルやニワトリを売る店が現れてきました。

ダム・マーケットは昔ながらのたたずまいで、それほど広くはなく、地元の人たちの生活に密着した市場のようでした。
朝食を食べたのですが、写真を撮るのを忘れてしまいました。物価は安く、5,000ドン、25円。食べるのに苦労していたら、まわりの人が、食べ方を教えてくれました。

リゾ-ト・ビーチ (O.SIX Resort)

クイニョン市街地から国道1Dを10キロちょっと南下したところに海岸沿いのリゾート地があります。そのひとつに連れていっていただきました。

O.SIX Resort
O.SIX Resort
O.SIX Resort

O.SIX Resortからハン・マック・トゥの記念碑へ行く途中に、”SCIENCE AVENUE”, “International Centre for Interdisciplinary Science and Education” の看板が見えたので、寄ってもらいました。まだ、工事中でした。
ICISEの目的は、先進国と新興国の科学者を結集して会議を開催し、育成することです。ICISEは、毎年10〜12の高水準の国際科学会議を主催しています。このプログラムは、主に物理学分野における基礎科学または応用科学を対象としており、生物学、医学、社会科学、人間科学など、より多くの科学分野を対象とするように拡張していくとのことです。

ハン ・マック ・トゥの墓 (Han Mac Tu grave; Nơi yên nghĩ đầu tiên của nhà thơ Hàn Mạc Tử)

国道1Dから右折し、狭い峠道を下っていく。ガードレールの左側は崖です。20年以上昔、クイニョン市街地で知り合ったバイクタクシーの運転手が、きれいな場所に案内すると言ってこの道を下ったときは、ただ、岬の先端を案内してくれるのかなと思いました。そして、そのときは、どういうところに連れてきてくれたのか、最後まで分かりませんでした。ただ、海岸に立つマリア像、整然と樹木に包まれた人気を感じられない住宅群の強烈な印象が残っています。

ハン・マック・トゥ (Hàn Mặc Tử; 本名 Francis Nguyễn Trọng Trí) は、「愛の詩人」として知られているベトナムの有名な詩人で、カトリック信徒です。

ハン・マック・トゥの墓に立つマリア

1912年9月22日に、クアンビン省のドンホイで生まれ、16歳のときから詩作に才能をのぞかせました。彼は、フランス植民地時代のベトナム民族主義運動・独立運動指導者ファン・ボイ・チャウに出会い、強い影響を受けたそうです。そしてファン・ボイ・チャウはハン・マック・トゥの詩 「Up Late」を新聞で紹介したとのことです (https://vi.wikipedia.org/wiki/H%C3%A0n_M%E1%BA%B7c_T%E1%BB%AD による)。

ハン・マック・トゥは1937年にハンセン病にかかってクイホア病院 (Quy Hoa Leprosy Hospital) に入院し、1940年11月に亡くなりました。ハンセン病は、らい菌(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症で、感染力・発病力は極めて弱く、治療法が確立された現代では完治する病気です。しかし当時は人にうつる怖い病気だという誤った偏見のために、患者は差別され、隔離され、時には虐待されました。

クイホア・ビーチ (Bãi biển Quy Hòa)

現在、クイホア病院を中心にした一帯はハン・マック・トゥの墓所や記念館がある緑豊かな公園として開放され、クイホア・ビーチ (Bãi biển Quy Hòa) は観光客でにぎわっています。
岩場のあるビーチには、リゾート施設らしき建物の中を通って降りていくのですが、シーズンではなかったからか、ダンスホールらしきところや、バー設備らしきところもありますが、がらんとして人気がありません。大きな絵画が数点飾ってありました。

園内には、大きな石がところどころに転がっていました。よく見ると、点々と小さな穴が連なって直線になっています。石を割ろうとした跡なのでしょうか?

ハン・マック・トゥは、土産物になっていました。

ビンディン総合博物館 (General Museum of Binh Dinh; Bảo Tàng Tổng Hợp Bình Định)

ビンディン総合博物館には、ビンディン省の歴史・文化が展示されています。
ベトナムの多くの博物館は抗仏・抗米闘争時期の展示が中心になっていますが、この博物館には、チャンパ文化に関する数百の遺物が保管されているという特徴があります。
博物館の案内によると、「国内で最も多くのチャンパの遺物が展示され、保管されているとされています」とのことです。
たしかに、かつて長いあいだチャンパ王国の首都が置かれ、チャム塔が数多く現存しているビンディン省の博物館だけあって素晴らしいチャム彫刻が展示されていますが、ダナンのチャム彫刻博物館、ハノイ歴史博物館、ホーチミン市歴史博物館、それぞれ見る価値があると思います。

ビンディン総合博物館の正面玄関と前庭

ビーチに面したビンディン総合博物館の前庭には、象やガルーダの石像、戦車が展示されています。

博物館を入ると正面がチャム彫刻の展示で、広い展示室にはいったとたん、ぞくぞくっとしてきました。他の博物館で見たチャム彫刻より繊細でユニークな神がいたからです。

博物館にはチャム文化の展示室だけでなく、この地域の文化、抗仏・抗米闘争についての展示室もあります。

トゥオンがどういう演劇かは、こちらをご覧ください: Nhà Hát Tuồng Đào Tấn : Khánh chúc xuân

1965年9月から10月にかけて韓国の陸軍首都師団 (通称:猛虎師団)、海兵隊第2海兵旅団 (通称:青竜師団) の約2万名がベトナムに上陸し、1968年には5万名がベトナム侵略戦争に参戦しました。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)最終更新 2020年5月4日 (月) 13:56』の「ベトナム戦争」によると、

韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺

  • 1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した。
  • 1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した。
  • さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)。
  • 1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件)、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる。
  • 1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された。
    1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
  • 同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される。
韓国陸軍・猛虎師団

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