ヴィンモックトンネル内の分娩室

世界遺産フォンニャ=ケバン観光のために滞在したドンホイ市から、次の目的地フエ市へは約170km離れています。途中、約75km南下したところで、1954年のジュネーブ協定で南北ベトナムを暫定的に分けた軍事境界線を越えます。
北緯17度線に沿った軍事境界線の南北それぞれ2kmは非武装中立地帯 (DMZ;Demilitarized Zone) とされましたが、ここは南ベトナム軍=米軍と北ベトナム軍の激しい戦闘がつづけられ、米軍による爆撃も激しく行われていました。
この戦闘の跡を訪ねながら、フエ市に向かうことにしました。(写真は、2014年4月に撮影したものです)

ドンホイ市から国道QL1Aを南下する。

下の地図で、白い帯が非武装中立地帯(DMZ)、訪問した場所は赤く囲った4か所です。また、西側の緑の地帯はラオスです。
1968年の「ケサンの戦い」は、ラオスとの国境に近い、地図の左下のあたりで行われました。ここまで訪問すると丸1日かかるので、今回はあきらめました。

ヴィンモックのトンネル (Vinh Moc Tunnel)

ドンホイ市から国道QL1Aを1時間ちょっと走ったあたりで海の方向へと左折し、20分ぐらい進むと目的地が見えてきました。

ヴィンモックのトンネルがある村に到着

ベトナム戦争時のトンネルというと、ホーチミン市中心部から60kmほど北にあって、南ベトナム民族解放戦線が戦闘用に張り巡らした「クチのトンネル」が有名ですが、「ヴィンモックのトンネル」は、軍事境界線からわずか5km北に離れたところにあって、住民たちが米軍の攻撃から身を守る生活のためのトンネルです。
入場料2万ドン (2014年時) を払って中にはいると資料館がありましたが、時間がないのでパスしました。竹林のあいだをすすんでいくと、米軍の爆撃でできたクレーター、敵の攻撃時に身を隠して移動できる塹壕が見えました。

左:爆撃によってできたクレーター/右:塹壕
投下されたさまざまな種類の不発弾。

トンネルは1965年初めから掘りはじめ、2年後の1967年に完成しました。
トンネルは3層構造になっています。地下1階は深さ12 mで、戦闘や一時的な避難のために使用されます。地下2階は地上から15 mの深さで、人々の住居や活動に使用されます。最終階は23mの深さで、食物や武器を隠すために使用されます。最も深いフロアは海抜3 mで、海への出口があって、通気口にもなっています。

地図をもらわなかったので、見つけた入口からはいったら5番入口だった。
真っ暗で、段差が大きく、勾配が急な階段で、70段あった。

トンネルには家族で生活する居住スペース、トイレ、キッチン、クリニックや産院、集会所、党委員会、人民委員会、軍事司令部の本部などがあります。トンネル居住者はめったに外に出かけません。
トンネルに居住する最大人口は約1,200人でした。約2,000日のあいだ、トンネル内での怪我人は出ず、17人の赤ちゃんが生まれました。

革命烈士が眠るチュオンソン国立墓地(Truong Son National Martyrs Cemetery

17度線に沿った軍事境界線をはさんだ非武装中立地帯。
ベトナム戦争時、敵味方が対峙し、双方が陣地をとろうと激しい戦闘が行われていました。
1971年7月キッシンジャー米大統領特別補佐官の電撃的な中国訪問、同年10月中国国連復帰など国際情勢変化の流れのなかで、1968年にはじまったパリ和平交渉が大きく動きだした1972年は、軍事成果が直接和平交渉の帰すうを左右するため、文字通り拠点を「死守」する戦闘がとりわけ激しさを増したのです。

1万人以上の革命烈士が眠るこの墓地には、私と同じ生まれ年の墓碑も目立ちます。当時の私よりもっと若くして死んだ人も、もっと年をとってから戦闘に参加した人もいたことが分かります。

17度線:ベンハイ川に架かるヒエンルオン橋 (Historical Relic of HIEN LUONG-BEN HAI Riverbanks)

ヒエンルオン橋は、川幅 100 mに満たないベンハイ川 (Ben Hai River) に架かかっています。
1954年のジュネーヴ協定は、ベトナムを北と南とに、2年間の暫定期間、一時的に分割すると決め、北緯17度線に沿って軍事境界線を設け、その南北2kmずつの幅を非武装中立地帯(DMZ)としました。軍事境界線は、ほぼベンハイ川にありました。軍事境界線が消滅するのは1975年4月30日の「南部解放」、1976年の「南北統一」によってでした。

白線は、1954年のジュネーヴ協定で、ベトナムを暫定的に北 (左側) と南 (右側) に地域区分した軍事境界線

ヒエンルオン橋は、フランスが1928年にこの地域の人々を動員して建設しました。当時、橋は鉄の杭で支えられた幅2mの木製で、歩行者が通行するには十分でした。
1952年、フランスは、長さ178 m、幅4 mで、鉄筋コンクリートの柱、鋼鉄の梁でできた新しい橋に建て替えました。この橋は1967 年、米軍の爆撃によって破壊されました。
その後、浮き橋を架けたりしましたが、1974年、ベトナム民主共和国政府は新しい場所に、鉄筋コンクリート製で、長さ186m、幅9m、1.2 メートル幅の歩道がある橋を架けました。

現在あるヒエンルオン橋は、旧い橋の設計図に従って元の形状に復元されたもので、旧国道AH1がすぐ脇を通っています。

ヒエンルオン橋をめぐっては実際の戦闘や爆撃といった「戦争」だけでなく、橋の色を塗り替える戦争、大音量のスピーカーによる政治宣伝合戦、より高く旗を掲げる合戦もありました。

橋の中央には、境界として幅1 cmの白い水平線があります。
当初、ベトナム共和国(南ベトナム)が橋の南半分を緑に塗装したところ、ベトナム民主共和国(北ベトナム)はすぐに残りの半分を青に塗装しました。
南ベトナムがこんどは茶色に塗装を変えた後、北ベトナムも茶色に塗装しなおしました。
その後も、南ベトナムが反対色で塗装すると、すぐに北ベトナムが同じ色に塗りなおしました。……。
2014年3月、ヒエンルオン橋は、青と黄色の2色のペンキを塗った状態に復元されました。(私が訪問したのは2014年4月だったので、橋の写真は塗装直後だったことになります。)

最初に、北ベトナムは、北岸に長さ1,500 mにわたって、出力25 Wのスピーカー24台から構成される5つのユニット群を構築しました。
放送を開始した数日後、このスピーカーシステムは、西ドイツとオーストラリアから提供された南ベトナムのスピーカーの大きな音にかき消されました。
北ベトナムは、ソビエト連邦の支援を得て、50 Wのスピーカー8台と250 Wのスピーカーを追加して報復しました。
それに対して南ベトナムは米国の援助で、数十キロにも及ぶ、より高度なスピーカーシステムを構築しました。……。

橋の北側にあるフラッグタワー。

ジュネーブ協定に従って、すべての国境警察署は毎日6:30から18:30までのあいだ、旗を掲げなければならないことになっていました。
当初、北ベトナムは高さ12 mの木材で旗竿を作り、3.2 m×4.8 mの大きさの旗を掛けました。
南岸では、高さ15 mの旗竿に旗が掛けられました。
北ベトナムの兵士たちは森に入って木を探し、高さ18 mの旗竿に替えました。
すぐに、南ベトナムは高さ30 mの鉄筋コンクリート製旗竿を建築し、上部にはベトナム共和国の大きな旗を掲げ、いろいろな色の電球で照明しました。
こんどは、ハノイで高さ34.5 mの鋼管の旗竿を製造した北ベトナムは、境界線まで輸送しました。旗竿の上部には、それぞれ500Wの電球が取り付けられた直径1.2 mの青銅の星が飾られていました。……。

1967年8月、米軍・南ベトナム軍は多数の航空機をつかってヒエンルオン橋を襲撃し、ベトナム民主共和国の旗竿も旗も破壊しました。その夜、南側のスピーカーは、「ヒエンルオン橋の北にある北ベトナムの旗竿は、アメリカ空軍によって砕かれ灰になった」と発表しました。しかし、まさにその夜、旗竿は新しく建てられ、翌朝、南ベトナムのアナウンサーがニュースを読んでいる間、ベトナム民主共和国の旗が掲げられつづけていました。

橋のたもとに資料館がありましたが、開いておらず、参観できませんでした。

クアンチ古城 (Thành cổ Quảng Trị)

マイ・クォック・カー小隊の記念碑

ヒエンルオン橋を出発し、国道AH1、QL1Aをクアンチ省の省都ドンハ市 (Thành phố Đông Hà) に向かい、街道沿いの食堂でランチを食べてさらに南下し、モニュメント(Tượng Đài Mai Quốc Ca)のところで、運転手さんが車を停めました。
1972年、Mai Quốc Ca が指揮する人民軍の小隊は、タックハン川(Song Thach Han)に架かるタックハン橋を占領し、100人の敵を待ち伏せして攻撃したものの19人の犠牲者を出して一時的に撤退します。共和国軍がみせしめのために川岸に並べていた遺体を、小隊は奪還しました。
勇敢な戦いの精神とその英雄的な犠牲の永遠のシンボルとして、このモニュメントが建てられました。

モニュメントの先には、タックハン川に架かる国道QL1号線のタックハン橋があります。そのたもとにあるプレートを運転手さんが指さすので見ると、そこには「NHAT BAN」(日本) の文字がありました。

赤で囲んだ「NHAT BAN」は、日本の意味。

タックハン橋を渡るとクアンチ市街地です。クアンチ古城にはすぐ到着しました。

クアンチ古城の城門と堀

クアンチ古城は、西山朝を倒して広南阮氏を再興し、1804年に嘉慶帝から越南国王に封じられ、「越南」正式国号とした阮福暎の時代、1809年に首都フエの北の守りとして建造されました。真四角の古城は、周囲約2000m、高さ4.25m、厚さ0.65mの城壁に囲まれ、その周りは深さ約3m、幅35mの堀が取り巻いています。

城内にはいると、正面に慰霊碑

堀を渡り、門から入ると、正面に戦死者慰霊碑があります。

大勢の人たちがグループで参拝に訪れていました。先生に引率された中学生らしいグループもいます。
慰霊碑の真下には、人民軍の兵士が身に着けていた帽子、水筒、サンダル、雑嚢が展示されていました。

城内に残る政治犯収容所

さらに進むと、フランス植民地時代に、政治犯収容所とされていた城の一部が残っていました。
そういえば、Vinh市の城跡にあるゲティン・ソビエト博物館(Bảo Tàng Xô Viết Nghệ Tĩnh )も、フランス植民地時代は政治犯収容所として使われていた場所の上に建てられています (ゲアン省の省都ヴィン市と、革命家の生家を訪問)。

クアンチ攻防戦のとき、ここで何があったのでしょう。
崩壊しかかった建物の窪みがあるところには、線香が刺さっています。ここで戦死した兵士への弔いなのでしょう。

クアンチ攻防戦を伝える戦争博物館

戦争博物館がありました。クアンチ攻防戦のときに使われた米軍の砲弾、戦闘図、写真などが展示されています。

戦争博物館入口の展示

1972年3月末、北ベトナム人民軍・南ベトナム解放民族戦線はクアンチを3方面から攻撃し、米軍=南ベトナム政府軍の主要基地に大きな被害を与えました。4月末の第二波攻撃で、人民軍・解放戦線はドンハー (Dong Ha)、アイトゥ (Ai Tu) を攻略、5月1日にはクアンチを占拠し、クアンチ古城に陣地を構築しました。ここに南ベトナム政府は、支配していた省を1つ失うことになりました。

当時、パリでは、ベトナム和平に向けての四者会談 (米国・南ベトナムと北ベトナム・民族解放戦線)、米国と北ベトナムとの秘密会談がつづいていました。クアンチの支配権をどちらがとるかが、交渉の有利・不利に大きな影響を及ぼします。
2か月後、米軍と南政府軍は猛烈な空爆、砲撃による攻撃を開始します。ベトナム共産党は、クアンチ「死守」を命令していたとのことです。戦闘は81日間続き、人民軍は撤退を余儀なくされました。このクアンチ攻防戦で人民軍は、1万人の戦死者を出したと言われています。

以下、戦争博物館の展示を紹介します。

ベトナムの声放送局-国際放送 (VOV.vn) ホームページ > ベトナムディスカバリー の
 「クァンチ古城の訪れ」(2015年8月5日)
で、国内外の多くの観光客を引き付ける歴史遺跡となっているクアンチ古城が紹介されています。

ベトナムの紹介(写真)